日本のプロフェッショナル 日本の中小企業診断士|2018年6月号

Profile

内藤 博氏

事業承継センター株式会社 取締役会長、一般社団法人事業承継協会 代表理事、中小企業診断士 事業承継士

1952年、神奈川県横浜市生まれ。1975年、法政大学経済学部卒業、(株)モーターマガジン社に入社し、42歳から取締役就任。1994年、中小企業診断士試験合格。2002年、(株)モーターマガジン社退社。独立開業して経営コンサルタントとなる。2007年、多摩信用金庫と東京商工会議所の「事業承継支援センター」で事業承継の専門家として相談担当。セミナー講師等を務める。2011年、事業承継センター株式会社を設立、代表取締役に就任。2015年、一般社団法人事業承継協会を創設、代表理事に就任。2018年2月、事業承継センターの取締役会長に就任。著書:『いちばん優しい事業承継の本』(税務経理協会)、『これから事業承継に取り組むためのABC』(税務経理協会)、他。

中小企業診断士は経営者に寄り添う「伴走者」。
事業承継、後継者育成を通じて、企業を次代へと導きます。

中小企業診断士(以下、診断士)は、中小企業の経営課題に診断や助言を行う専門家だ。ビジネス・経営に関する幅広い知識・スキルを身につけられる診断士試験の学習内容を学ぶことで、刻一刻と変わっていく社会環境や経済状況を俯瞰的、論理的につかむことができるようになる。試験を突破し、晴れて診断士となって実務の世界に飛び込むと、今度は実際の経営者の立場に立って悩みや課題解決に臨む番だ。しかし、現実は机上の勉強よりもはるかに根が深く複合的で難しい。中小企業診断士の内藤博氏は、40歳から診断士をめざし、42歳で試験に合格、49歳で独立開業。事業承継に特化した経営コンサルティングを展開してきた経緯と今後について伺ってみた。

40歳にして診断士をめざす

 実家は東京・日本橋浜町。明治時代から続く「食用油問屋」を営む祖父から「お前に店を継いでほしい」と言われたのは社会人になって2年目の時。「親父だってできなかったことを俺がやるなんて無理だよ」と断った。もしも、その時首を縦に振っていれば、実家の油問屋は今も続いていたに違いない。中小企業診断士の内藤博氏は、悔いる思いがあるから「事業の後を継ぐ」ことにずっとこだわってきた。
 内藤氏は法政大学経済学部を卒業後、オートバイの趣味が活かせると思い株式会社モーターマガジン社(以下、モーターマガジン社)に入社。営業、広告、労働組合、編集、編集部子会社社長を経て本社取締役となり、退職まで27年間を過ごした。
「なぜ診断士資格を取ろうと思ったのか。それは広告掲載の最後のゴーサインを出すのが社長だからです。社長を相手にすれば経営の話、新製品の広告をどう打つかといった未来の話になります。その時に話し相手になれないと広告の契約が取れない。広告担当の時は一番経営知識のニーズを感じていました。その後も新聞や雑誌で社長のコメントをもらったり、経営方針発表等のプレスリリースをもらいに行くと、経営の話が必ず出ました。そんなことから、診断士資格が私の中では必要不可欠の存在となっていったのです」
 内藤氏が資格取得を意識した背景には、時代の変化もあったという。
「取得を考えた時には独立も考えていました。そして、デジタル化が進み、出版社の今後が大きく変わろうとしていたことも要因のひとつです。下請け企業もずいぶん潰れました。かわいそうだと思ってもどうしようもなかった。デジタル化に対応するため、業態転換する資金をどう借りるか、補助金をもらえないかと考えたのですが、素人ではどうすることもできません。そうしたことも診断士をめざした背景にありました」
 40歳にして一念発起。診断士の勉強をスタートした内藤氏は、1年目は通信講座で学習して試し受験をしたが、まったく歯が立たなかった。そこで2年目は通学講座で学び、1次試験、2次試験突破にチャレンジした。当時は営業のトップだったことから仕事は忙しく、勉強する時間は取れない。家に帰れば子どももいる。しかし、1年目の失敗を糧に2年目は思い切ってすべてを断捨離。家族に「土日はいないよ」と言って通学し、試験前の半年間は早朝勉強会にも参加した。
 こうして40歳からスタートして丸2年。2回目の受験で内藤氏は診断士試験に合格した。  ところが合格を手に独立を考えていた矢先に会社から取締役就任の辞令が下りた。
「取締役になったら辞められません。さらに役員になって3年目に、会社が大赤字になりました。大規模なリストラが始まり、私はリストラ担当に。自分の同期に辞めてくれというのはどれだけ辛かったか…。体調も崩しました。家内が『子どもが大学に入学して入学金だけ払ったらいいよ』と言ってくれたので、大勢の仲間たちのクビを切って、リストラに目処をつけてから、最後に自分のクビを切りました」  あの時、あれだけのリストラを断行したからこそ、今も会社は生き残っている。雑誌として100年を超えるものもあるし、何より会社として60周年を迎えることができた。
「それはそれで良かったんだと思う」と、陰の立役者はひっそりと語る。
 2002年、モーターマガジン社を退社した内藤氏は、同年、診断士として独立。経営コンサルタントとしての第一歩を踏み出した。49歳の時のことだった。

コンサルタントの事業承継

 いきなり開業といっても診断士として何をやるのか、方向性を定めなければならない。内藤氏は「経営コンサルタントとは、どういうものなのか」を探るため、最初の1年間、中小企業診断士協会や役所の公的仕事に携わってみた。
「いろいろとやらせていただきましたが、とても家族を抱えて食べていける状況ではありませんでした。一日も早く、顧問でできる仕事を組立てなければと切実に感じました」
 内藤氏が最初に手がけたのは、今まで係わってきたPR・宣伝広報、販売促進を中心としたコンサルティング。これをメインにセミナーや執筆につなげる戦略だった。ところがやってみると、そんな小手先のことでは真の経営コンサルティングなどできないと気づいた。
「PRや宣伝をするためには会社が続いていかなくてはなりません。会社が続いていくために、経営コンサルタントとして何をすべきか。それは、きちんと事業承継をして次の世代につないでいくお手伝いです。現社長が考えていることを理解し、次期社長へと引き継ぎながら新しいものを取り入れていく。これをやらないと、会社は続いていかないと痛感したのです」
 試行錯誤の中で、開業からの3年間は食べていくのもやっとだった。退職金はあっという間に底をついた。「過去にやってきたことだけではダメだ。本格的に新たなジャンルを切り拓かないと」と考えていた時、診断士の先輩から「かばん持ち」を頼まれて引き受けることになった。1年後、先輩は80歳で資格を返上。その際「自分がやってきたスキルやノウハウをすべて君にあげる」と、商工会議所や大学講師関係、顧問企業まで、そっくり内藤氏に譲ってくれた。
「先輩は、自分が資格を返上したらこれまでのノウハウはどこへいってしまうのかを危惧していました。引き取る相手を探している時に私とフィーリングが合った。これって、コンサルタントの事業承継ですよね」
 内藤氏の脳裏に実家の祖父のことがよぎった。「事業承継を専門にやろう!」と決めた。
 迷いがなくなると、一気に追い風が吹き始める。内藤氏は、当時、多摩信用金庫に創設された事業承継支援地域連携拠点の「事業承継担当」に応募。事業承継の相談担当として職員と同行し、顧客企業に行くようになった。その際、内藤氏は多摩信用金庫にある提案を持ち込んでいる。
「金融機関の職員は、経営者に商品を売り込むと『もう来なくていいよ』と言われてしまう。けれども経営のアドバイスができれば、相談相手として毎月『来て欲しい』と言ってもらえる。これはまったく違います。そこで、『相談業務でお金が取れるんですよ』と提案したのです。今では当たり前ですが、これが当時はポイントになったのです」
 ここから、金融機関とタッグを組んだ事業承継の問題解決スキームができあがり、事業承継を依頼されるようになった。
 その後、東京商工会議所の事業承継専門家として、事業承継窓口に「初代専門家」として着任。多摩信用金庫と東京商工会議所の事業承継専門家として、1,000件を超える相談にあたった。コーチングと心理学を応用したコンサルティングは、「安心して相談できる」「わかりやすい」「結果が伴う」「教育がうまい」と高い評価を得て、現在も年間50回を超えるセミナー講師として、経営相談のエキスパートとして、中小企業経営者に向き合っている。

「事業承継士」を創設

悩み多き経営者の相談相手と後継者育成支援のために2011年、内藤氏はそれまでの個人から専門家集団へと組織変更して、事業承継センター株式会社(以下、事業承継センター)を設立した。
「会社組織にしようと思ったのは、2011年3月11日、東日本大震災があったからです。大震災では、大切な生命はもちろんのこと、ノウハウや目に見えない財産が消えてしまいました。これを何とかしなければという同じ思いのメンバーと、2011年11月に創業しました。東日本大震災がなかったら株式会社になっていなかったと思います。
 なぜなら、サラリーマンを辞めたのはひとりでやりたいから、自分が親方になってやりたかったからです。しかも皆ひとりで稼げるメンバーばかり。ここでやりたいことがあるという思いと、組織でなければできないことがなければ会社にはしませんでした。皆、ノウハウを引き継ぎ、発展させていきたいという思いと、場所を必要としていたんですね」
 事業承継センターが誕生すると、その業務は次第に事業承継を支援する専門家の養成という教育事業にシフトしていった。内藤氏は、民間資格「事業承継士」を創設することにした。
「診断士や税理士など有資格者を対象とした事業承継士は、3年前にスタートして今では全国に300人以上が取得しました。その後、次期社長を養成する目的で『後継者塾』、要は実際に経営者を育てる養成講座を始め、今年7期目を迎えました。後継者教育こそ、100年企業への重要経営戦略です」
 事業承継士講座を始めると同時に、一般社団法人事業承継協会を創立し、事業承継士資格を取得した人たちの共有財産としてのブランド価値を高めていく仕事にも取り組んでいる。

自己体験から始まった事業承継

 現在、事業承継センターの業務は、行政から受託して相談に乗る・教育を行う。金融機関等から受託し事業承継・後継者育成をする。そして事業承継コンサルティングそのものをする、この3つが3本柱となってバランスよく動いている。特徴的なのは事業承継の顧問契約をする際に、必ず診断士ふたりで契約をする点だ。現社長は内藤氏が、時期社長は若手診断士が担当し、現社長が引退する時は内藤氏も一緒にコンサルタント契約を引退して、契約体制はふたりからひとり体制へ。
次期社長とのコンサルティングはそのまま続くのである。
「こうすると、すごく安定的な状態まで持っていくことができる」と、事業承継の理想的なアプローチを実現しようとする。
「親父が長くやってきた仕事を子どもの世代へ。20〜30歳は若返ります。でも子どもは経営はまだへたくそですから、誰かがリードする必要がある。親父がガードしている間は、経営者としても干渉されているようで面白くない。ここは専門家である診断士がついて、経営計画や採用、社員教育をきっちり教えながら、継いだお子さんがしっかりひとりで経営ができるようにする。このタイミングが重要なんです」と内藤氏は主張する。
 中小企業庁では中小企業が代表交代するまで3年間をかけて後継者を教育したり、会社の整備をする「プレ事業承継」を掲げている。また承継後5年かけて後継者を一人前にする「ポスト事業承継」も推奨する。これを支援するのがまさに診断士なのである。
「プレで3年、継いで2年。ポストで5年。事業承継は最低でも10年はかかる。それを中小企業庁が、『事業承継集中支援10年間』と謳っています。しかし会社がある以上、10年どころかずっと支援が必要になってくる。寄り添っているうちに30年に1回、事業承継が起きるんですから」
 内藤氏がここまで事業承継にこだわるのは、やはり実家の廃業への思いがあるようだ。
「最後は祖父がひとりでやっていたのですが、廃業せざるを得なくなりました。そもそもなぜ実家の家業が廃業したのか。祖父がやってきた老舗がなんでつぶれるのか。そこが疑問でした。
 実は父親が婿で入って家業を継ぐはずだったんです。5〜6年やりましたが、祖父と大げんかして家を飛びだしてしまった。継いだ婿は経営者として責任を背負わなければいけない。他人でありながら一族であるという複雑な関係。だから婿に継がせるのはものすごくテクニックがいるんです。家つき娘のおふくろは帳簿を持っているので辞められないし、家に帰ってからも会計の仕事をする。親父が仕事から帰ってきて『何やってんの』と、ケンカばかりしていました。そんな姿を見て育ったら、どうしたって継ぐ気にはならないんですよ。
 だから原点は自己体験。それがベースです。単にこれが儲かるからやろうじゃない。どうしてなのかという疑問がずっと残っているから、それを仕事にしてきたんです」
 内藤氏は、事業承継が少し様変わりしてきたと分析する。かつての「誰が継いでも伝統さえ守っていれば企業が永続する」というのは幻想で、情報社会の中では常に変化していかなければ企業は生き残れなくなった。
「そしてもうひとつの事実は、親族内承継が少なくなり、代わりに能力のある他人への事業承継、いわゆる親族外承継が増加し続けているということです。つまりこれまでの親族内の事業承継時に問題にならなかった資産、権利、名義といったものをきちんと整理しておかないと、会社が事業承継を契機に衰退してしまうリスクが高くなったのです」
 こうした現状に接する中、事業承継センターの支援で、事業承継で失敗する会社を1社でも減らしたいと考える。
「一家を継ぐのは長男。そんな昭和の子どもたちの権利意識や義務感、家を継いでいかないといけないというプレッシャーといった社会的規範が変わってしまった。一番は時代性だと思います。日本の昔ながらの人間的なつながりが減ってきましたね。その結果お墓が余ったり、空き家が増えています。だから事業承継=親の墓守で、一族の財産の管理であるというのは離れられない世界ではあるけれど、私自身がそうだったように家を継がないという選択もある、職業選択の自由が当り前になったことが何よりも大きいでしょう。
 もうひとつ言うならば、能力の問題もあります。要は社長になれる能力があるかないか。5~10人の会社はさておき、50~100人となると中間管理職のいる組織が必要になります。幹部の人間を束ねていく能力のある人でないとできません。自分の子どもでも無理だろうなというのは親の選択の中に出てくるんです」

社長の高齢化が老害に

 実は事業承継センター自体も事業承継を行っている。2018年2月末、事業承継センターの社長に創業時からのパートナー、金子一徳氏(診断士/CFP®)が就任、内藤氏は取締役会長になった。今後は一般社団法人事業承継協会の代表理事としての業務をメインとしていくのが内藤氏自身の事業承継モデルだ。
「会社の社長だった人間が株式会社を卒業して一般社団法人の理事に着地します。事業承継をして辞めてしまって『これでもうやることがない』となると、前社長はバトンタッチしたあと、行くところがありません。そこで一般社団法人を作って、そちらの活動をしていく。株式会社は営利企業として社員などを食べさせていかなければならないのですが、社団の方は非営利なので、それほど売上を求めたりしないし、ガツガツやる必要がないんです。余生を楽しみながら、やりたかった社会貢献ができる。このスキームを、いろいろなところで経営者にお勧めしているんです」
 事業承継は自分で経験してみないとわからない。そう、内藤氏は考えている。それほど事業承継を決断するのは難しい。
「ひとつは不条理だから。人間は年を取ってやがて死んでいく。そこに向かっていくということは否応なしに圧力がかかるわけです。だんだんと老人力がついてきて、物忘れは激しいし、肉体的にもつらくなってくる。『おまえはもう年なんだぞ』と自分自身に知らされるわけです。
 そうなっても社長として会社にいれば、会社は優しいんです。皆が『社長、社長』と大事にしてくれるし、トップでいると居心地がいい。特に事業承継寸前の会社は、エアコンの温度調節も、座る場所も、コーヒーの濃さも、その社長に最適な状態になっています。その社長にとってもっとも良い状態になっているんです。
 それを捨てるということは、ぬるま湯をあえて蹴飛ばして、ぬるま湯ではないところに行く決断をすること。それはやはりかなりなものです。『辞められない社長』というのは、そういう既得権にしがみついてしまう。『辞められない社長』はたくさんいますよ。健康のために会社に行くとか、他に行くところがないから会社に行くとか、ひどいことを言います。『だったら、社長という肩書きだけはずせば』と言っても、既得権があるのでなかなか難しい。
 ですから長くやっている社長ほど難しいのです。社長というのは法人登記して代表取締役になれば自分ひとりでもなれます。でも辞める時はそうはいきません。次の人が必要になるし、辞めたあとどうするかを決めなければいけない。辞めたあとの組織がどうなるか見通しが立たないと辞めることもできません。それに『あいつで大丈夫なのか』と思うとなかなか譲れない。そうやっていると段々年を取ってきて、年を取れば取るほど守りに入り、攻めではなくなる。そうすると例えば後継者が新製品を出したいと言っても『そんなもんやめろ』、お金を借りて設備を入れたいといっても『借金なんかするな』と、後継者がやろうとすることをどんどん否定してしまう。それが『現社長の高齢化による老害』なのです」   事業承継の専門家であるだけに、内藤氏は経営者の加齢による課題を十分に把握している。
「私は、それだけは自分でやりたくなかった。新しいトップは49歳。私はもう65歳過ぎなので社会的にいえば『ひとつの事業を終えた』立場です。流れていく勢いがあるだけで、何か新しいものを生み出せるかといったら微妙です。でも40代の社長であれば新しいものを生み出せるし、借金してでも新しいものに挑戦したいと思える。65歳になったら借金なんかしたくない。自分で返すということも含めてそのプレッシャーが嫌になっちゃうし、未来がないんだから未来に対する投資なんてしませんよね」  今後は一般社団法人にシフトし、社会貢献を含めて「ゆったりと」活動をしたいと言う。「全国にいる事業承継士の活動を支援する」がテーマだ。
 診断士資格を取得して24年。内藤氏にとって診断士とはどのような存在なのだろう。
「診断士は、間違っても国が用意した補助金を取るための申請者になってはいけません。それを生業にしてしまうとコンサルタントではなく、申請代行者になってしまいます。しかも国の制度がある間は仕事がありますが、制度が変われば寄って立つところがなくなってしまいます。
 だから診断士は経営者にしっかり寄り添う、経営者と一緒に走る伴走者にならなければいけません。そのためにこの事業承継というタイミングはすごく良いタイミングなのです」

叶えるのは66歳の夢

 内藤氏はビジネスの中で経営に関することを学びたい人にとって、診断士の知識は絶対必須だと断言する。
「中小企業の経営者は、社長兼運転手兼営業マンです。いろいろな面を見なければいけないから診断士試験は7科目もある。面倒くさいかもしれませんが、それはちょっとずついろいろなことを知っておかないと、中小企業の社長の相手はできないということなんです。だから診断士の仕事は、相談相手になったり、人間同士のキャッチボールをしたりすることに興味がある人にとっては、最高の資格です。年を取って、実務からは引退しても、相手が社長でなくても、人間の相談相手というのは一生できます」
 全国にあるNPO、一般社団法人が創設されて30年。団体のトップの事業承継が始まろうとしている。診断士として今後そういった非営利団体の支援も必要になってくる。
 もうひとつ。マーケットとして大きいのは下請け企業の事業承継だと内藤氏は言う。
「下請け企業は親会社から仕事をもらうことに特化しています。それこそ弱い立場なので、事業承継を迎えた時に『息子に譲ったら親会社から切られてしまうのでは』と思うわけです。その時に次の経営者をしっかりと支援して、親会社に頼らない経営も志向できるようにしておかなければなりません。中小企業庁が推奨している『知的資産経営報告書』があります。これは担保や保証人によらない融資を受けられるようにするためのものなのですが、この知的資産経営報告書を後継者が作れるようになれば、ものすごく効果があります。作ることで自分の会社を知ることにつながるし、理解がものすごく早まる。診断士がそうした部分まで支援を広げれば、事業承継はまだまだ深堀りできるはずです」
 診断士にとって、事業承継のマーケットのすそ野はまだまだ広がりそうだ。
「事業承継の多くの部分は税理士が占めていますが、すべての税理士が相談対応できているわけではありません。それなら士業同士で協力し合えばいい。『TACNEWS』の読者には公認会計士、税理士、診断士といろいろな資格の受験生がいますが、皆がネットワークを持って協力し合えれば、中小企業の事業承継はきっとうまくいくはずです。そのためのひとつのくくりとして事業承継士という横ぐしがあるんです」
 66歳を迎える今年、内藤氏はひとつの夢を叶えることにした。
「アメリカのルート66をシカゴからサンタモニカまで4,000キロ、大好きなハーレーダビッドソンで走りたい。もう予約を入れました。今からワクワクしています。66歳で22日間フリーになる。そのためにずっとやってきた。元気なうちに現場を休めるように自分で仕掛けを作ってこなければ、1ヵ月休暇を取るなんて無理です。そんな自分の温めていた夢を実現する。これも事業承継のひとつのポイントなんです」
 と言って、最後に子どものような笑顔を見せた。


[TACNEWS|日本の中小企業診断士|2018年6月号]

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