日本のプロフェッショナル 日本の行政書士|2018年1月号

Profile

石下 貴大氏

行政書士法人GOAL
代表 行政書士
行政書士の学校 校長

石下 貴大(いしげ たかひろ)
1978年、栃木県塩谷郡生まれ。2001年、立教大学法学部卒業。2007年、行政書士試験合格。2008年5月、行政書士石下貴大事務所開業。2013年、一般社団法人行政書士の学校設立、代表理事に就任。2014年、行政書士法人GOALに組織変更。

環境と行政の掛け橋となる「環境系行政書士」として専門分野を掘り下げていきます。

 行政書士は独立に向く資格と言われる。就職や転職に活かす、あるいは組織内で働くためではなく、独立して事務所を持つために使える資格だからだ。個人事務所が多く、組織化している事務所が他士業界ほど多くないのも行政書士の特徴と言える。こうした体質の業界にあって「行政書士力を上げて、行政書士界の底上げをしたい」と活動しているのが行政書士法人GOALの代表行政書士・石下貴大氏だ。「行政書士は業容範囲が広すぎて現場について学べる機会が少ない」と「行政書士の学校」を設立し、後進の育成にも取り組んでいる。開業前から約10年間、1日も欠かさずブログを更新する若手リーダーとして、行政書士界に新風を送り込む石下氏の生い立ちから戦略とアプローチに迫った。

あきらめたら試合終了

 栃木県の那須と鬼怒川の間に位置する栃木県塩谷郡塩谷町。石下貴大氏は、山と川に囲まれた自然豊かなこの土地に、床屋と美容師の両親の元、3人兄妹の長男として生まれた。忙しい両親に代わって幼い頃からずっと面倒を見てくれたのはおばあちゃんだ。赤ん坊だった石下氏をおぶっては店でシャンプーをする。絶対に泣き言を言わない、いつも優しい人だった。そんなおばあちゃんが泣いているのを初めて見たのは、私立中学受験に失敗した時。孫がかわいそうだと、声に出して泣いていた。石下氏の人生ひとつ目の転機はこの時に訪れた。
「自分のせいでおばあちゃんが泣いている。自分ががんばらないと、大好きな人が悲しむ。大好きな人を悲しませてはいけない…。まだ小学生だった私の体中に電流が走りました。それから自分の中で何かが変わったんですね」
 幸運にも、一度「不合格」と発表された結果が「補欠」に翻り、合格判定となって、石下氏は作新学院中等部に入学。家からバスで1時間半の距離を3年間、無遅刻無欠席の皆勤賞で通った。
 小学校3年生から地元でサッカーをやってきたが、作新学院にはサッカー部がなかったので入部したのはバスケ部だった。
「バスケ部に入部したのは、当時熱中していた漫画・『スラムダンク』の影響です。ブログの副題も私が好きな言葉、『あきらめたら試合終了ですよ』なんです(笑)」
 通学に1時間半かかっていたこともあって、最初のテスト結果は153名中150番。これ以上落ちようのない順位だ。少しずつがんばりを見せると少しずつはい上がり、中学3年になると、上位半分に食い込むようになった。
 「朝6時にバスに乗って20時過ぎに帰ってくる生活でしたが、いつも私より早く起きて、帰って来るのを待って一緒にご飯を食べてくれるおばあちゃんに、成績が上がった報告をして喜んでもらえるのが何よりうれしかった」と、当時を振り返る。
 高校受験が近づいた14歳の夏、宇都宮のおばの家で一人暮らしを経験する。 「初めての一人暮らしはもちろん寂しかった。でもがんばって結果を出さないと、またおばあちゃんを悲しませてしまう。それだけはダメだと思い、受験勉強に打ちこみました。
 ところが、ここでも人生の大きな壁が立ちふさがりました。いつも忙しく働いていた母がガン宣告されたのです」
 毎日朝から晩まで働き、週に一度の休みもほとんど研修に出ていた母。腕一本で勝負し、遠くからも常連客が来る。そんな母が誇らしく自慢だった。その母のガン宣告を知って、もちろん飛んで帰った。病院に見舞うと「母ちゃんは病気に勝つから、あなたは受験に勝ちなさい」と言われた。「自分が合格すれば母の病気も良くなるはず。もうやるしかない」。その思いひとつで受験に臨み、なんと栃木県有数の進学校、宇都宮高等学校合格を手にした。
「合格を報告した時の母の笑顔は忘れることができません。母は手術を終え、無事退院し、リハビリしながらすぐ仕事に復帰しました。プロの仕事に対する意識。それは間違いなくこの母から学びました」
 高校に入学すると、いよいよ本格的に一人暮らしがスタートした。
「高校時代は勉強とサッカーでも世界の広さを痛感した時期でした。勉強はついていけない。がんばっても順位がなかなか上がらない。サッカーはスポーツ推薦で入ってきた人が同学年に10人もいる。とにかく中学時代トップクラスだった人が集まってきている。4軍からスタートして先生に顔すら覚えてもらえない中で、チャンスは練習試合で結果を出すこと。自分が2軍に入れ替えられると代わりに2年生が落ちていく。実力世界の厳しさ。今までみたいにある程度の努力では通用しない。実績も実力も劣る分、人よりやるしかない。朝練して、昼は筋トレ、練習後は走り込み。何とか少しずつ試合に出られるようになって新人戦3位、そして関東大会の県予選で優勝して、関東大会も経験することができました」
 たまに実家に帰ると、そんな自分の武勇伝を両親はお客様にうれしそうに話していた。「本気で物事に取り組むと結果につながる」というものすごい達成感を感じたのはこの時だ。なにごとも「あきらめたら試合終了」なのだから。
 本気でサッカーをする中で、多くを学び、切磋琢磨する仲間もできて、いよいよ最後の大会も終わり、本格的な受験シーズンを迎える頃、またしても人生の壁が立ちふさがった。母のガンが再発したのである。
「正直、受験どころではなかったんです。母は『母ちゃんは大丈夫だから受験がんばりなさい』と、高校受験の時と同じことを言いました。自分に今できることは、がんばって大学受験で結果を出して、『母ちゃんもがんばれよ』と言うことしかない。ものすごくつらかったけど泣き言をいってる暇はない。そう追い込んで必死に勉強した結果、立教大学法学部に現役合格できたのです。結果報告に行くと、母は喜んで看護婦さんに自慢しました。それがすごくうれしかった」
 大学生となって栃木から東京に出ると、ますます実家から遠く離れた。その間も母の闘病生活は続いていた。自分が帰ると「母が自分は良くないのかと気持ちが折れてしまうから」と父に言われ、帰りたくても帰れなかった。
「14歳からずっと離れて暮らしてきたのに、母が病気になっても帰れなかったのは、本当につらかった。父に呼ばれたのは大学生活に慣れ始めた秋頃。その日から衰弱した母をつきっきりで看病しました。母は最後まであきらめず、最後まで気丈に笑顔でした。父は忙しくさせすぎたと自分を責めて、中国の有名な気功の先生のところに連れて行きました。それがふたり初めての海外旅行でした。父は関連本を山ほど読破し、患部のケアをいつもそばでしていたんです。
 最後まであきらめない母の姿、母のためにそこまでする父の姿が目に焼きついていました」
 母の死後、なかなか気持ちは上がってこなかった。「自分は母のように腕一本磨き続けて人のために役立つことをしたい」という思いで法学部に入ったはずだ。法律関係の資格を取りたいという思いからではなかったか。「司法試験にチャレンジしよう」。思いはあるのに、周囲が内定をもらう時期になっても資格を取るという理由で就職活動はせず、かといって資格の勉強にも身が入らない。モラトリアムが続いた。
「完全にダメ学生です。もしかしたらどこかがんばっていた糸が切れたのかもしれません。合格するまで平均7年といわれる司法試験。その難しさに甘えていたのかもしれない。本気でやれば受かるんだと。でもそんなに甘くはなかった」
 長い挫折の日々が始まった。卒業後はハンバーガー屋でのアルバイトと受験勉強の日々。大学と違い、出欠もとらないし単位認定の試験もない。1年に一度の勝負だけ。あれだけ母のがんばる姿を見てきたのに!と自分を奮い立たせても、少し時間が経つとまた甘えてしまう。3年目、4年目と2次試験は合格したが3次試験であえなく撃沈。
「やりきれていない自分がいるくせに、人並みに不安や嫉妬ばかり大きくなって、夜中吐き気に襲われたり、全身に湿疹が出たり、口内炎が何個もできたり。ハンバーガー屋に来るお客様がみんな自分より立派に見えて、自分を卑下しては同年代の人がスーツで来ると『俺は夢を持ってやっているんだ』と嫉妬の目を向けて、卒業でどんどん辞めていくバイトの子をうらやんで…。どん底でした」
 すでに28歳。30代に手が届こうとしていた。

「行政書士」との出会い

 そんなある日、妹から「会社を作りたいから手伝ってほしい」と言われた。どうやって作るのかを調べているうちに、大学時代の友人が専門家として仕事をしていると聞いた。彼は「行政書士」をしていると。
「行政書士が法律系資格であることは知っていましたが、何であるかはほとんど知りませんでした。手伝う中で行政手続きのプロで、法律の知識をもとに人の役に立っていることがわかりました。妹の手続きが終わる頃、友人から『手伝ってくれない?君なら法律の勉強をしているから即戦力になるよ』と言われ、これが運命の出会いとなったのです」
 自分のやってきたことが活かせる。人の役に立つ仕事で、自分の腕を磨き、勝負できる。手伝いながら仕事を覚え、数ヵ月後には行政書士をめざして勉強を始めていた。
 司法試験のベースがあるから憲法と民法は大丈夫。ひたすら行政法を独学で勉強。書籍を買って独学で学習するスタイルは自分の中で確立されていたので、基本書と過去問だけを徹底的に攻略した。司法試験でかなり自信をなくしていたので「こっちもダメだったら救いようがないな」と背水の陣で臨んだ試験は、メンタル面でもぎりぎりだった。
 結果は、2007年の本試験で一発合格。2008年1月の合格発表を受けて、5ヵ月後、友人の事務所にデスクを置き、「行政書士石下貴大事務所」を開業した。大学を卒業して7年。社会人経験もない、お金もない、コネもない。それでも人生で初めて、社会へのスタートラインに立った瞬間だった。

10年間毎日ブログを更新

 社会に出るきっかけ。行政書士はまさに渡りに船だった。それまで溜まっていたうっぷんを吐き出すような「合格したんだから独立!」だった。
 と言っても、できることはそれまで友人の事務所でサポートしたことのある建設業許認可手続きと産業廃棄物関係。やってきたといってもレベルとしてはほぼゼロだ。独立開業に際して開業本を読み、自分なりに業務を絞ったほうがいいと考えた。業界ボリュームがそれなりにあり、競合も目立つ人がそれほどいなくて、今後の展開的にも活況なのはと探すと、環境ビジネスに行き当たった。
「そもそも自分が田舎育ちなので、少しでも環境に良い仕事に係わりたいという思いがあった。自分の強みと一致して産業廃棄物中心に環境系の仕事に特化しようと決めたんです」
 社会人経験ゼロ。普通に会話できるようになった知り合いは7~8年で年間5人を超えない生活をしてきた。名刺交換もしたことがない。もちろん顧客はゼロ。紹介してくれる人もいない。となれば、「モチベーション」やら「やりがい」などと言っていられない。とにかくやってみる。そんな状況の中、依頼の第一号は会社設立案件だった。
「当時はブログ全盛期で、私もブログで集客できるという本を読んで、翌日から本日まで約10年ずっと書き続けてきました。同じように起業したい人たちがこぞってブログをやっていて、そこで知り合った人からの依頼が一件目の仕事でした」
 ブログで知り合った人と実際の起業会や異業種交流会で仲良くなり、お互い仕事を紹介しあう。そんなネットワークが広がり、Webサイトからも仕事の依頼がくるようになった。100%Webサイトから始まった集客が、知り合った士業の先生との連携や紹介で広がり、仕事は徐々に増えていったのである。

専門特化集団GOALの誕生

 3年目を迎える頃、事務所は業務量がひとりではこなせない節目を迎えた。そこから妻と二人三脚を始め、さらにもうひとり行政書士に入ってもらい、事務所は3人体制となる。その頃から業務を遂行していく中で、組織化を図ったほうがいいのではないかと思うようになった。ちょうど自分の強みは「新しいアイデアを形にする、あるいは連携先を作っていくことにある」とわかり始めた頃だ。
「法人化を考えたのは開業4年目。魅力はあるけれどハードルも高い。無限連帯責任だし、誰と一緒にやるかがものすごく大事ですよね。当然、共同経営者は腹のうちをすべて見せ合うので誰でもいいわけではありません。
 その時、もし一緒にやっていくならこの人と思う人材がいたんです。彼がノーだったらずっと個人事務所でいこうと覚悟を決めてお願いしました。彼は私と同期で、初年度から1,000万円を売り上げるほどのやり手。結果も出していて、私とは違う強み、私に足りないものを持っていた。組織化するなら、自分にできないことをやれる人がいればもっと成長できると確信しました」
 お互い開業7年目、すでに自分のやり方・文化がある。それをひとつにするのは非常に難易度が高いのはわかっていた。それでも、これまで圧倒的な量しか質に転換しないという言葉で生きてきた石下氏に対して、彼は効率的な部分やものごとをきちんと数字で考えられた。次のステップに進むにはやはり彼が必要だった。
 彼の同意を得たあと、石下氏は彼の奥様に「リスクはあるけれど絶対に幸せにするから」と頭を下げた。まるで「お嫁にください」と言っているようだったと、笑いながら振り返る。その彼こそ、現在副代表を務め、資金調達業務などに奔走している若林哲平氏である。
 2014年、6名となった組織は、行政書士法人GOALとして新たなスタートを切った。
 行政書士法人GOALのサービスラインは、まず石下氏が得意とする産業廃棄物許可申請、次に建設業、宅建業、古物商、入管業務、特殊車両通行許可、貨物利用運送事業。起業サポートでは一般社団法人、NPO法人、会社設立、創業融資サポート、またアウトソーシングとして補助金・助成金サポート、会計記帳代行サービスと幅広い内容だ。
「BtoBビジネスなので足がかりとなるのは会社設立だったりしますが、それにNPOや一般社団法人も強化してプラスアルファのサービスが提供できます。私自身は産業廃棄物関係や古物商に専門特化して『環境系行政書士』として動いています。
 実は、GOALは人の集め方自体が変わっていて、独立している士業の専門家、しかもすでに専門特化した事業ドメインを持っている人ばかりを迎え入れているんです。すると、自分たちができるようにならなくても事業領域を増やすことができるんです。そこから建設業、運送関係、融資関係、入管業務と、業容範囲を横展開できます。
 2015年からは未経験者も採用して、彼らのサポートに入ってもらい、チーム制を始めました。組織的展開も進めているところです。行政書士の事務所はひとつの事業ドメインだけでやっている方が多いので、業務範囲の広さは大きな差別化になります。例えば、入管業務でも留学生から就労への変更を1社から100名分の依頼があったとしても、おそらく個人事務所のキャパシティではかなり厳しいでしょう。私たちのような法人で人数が多いところに頼んだほうが、はるかに早いし安心です。こうした大型案件を狙って取りにいく戦略も練られるようになってきました。
 業務領域を広げるのは、ひとつの事業ドメインがだめになっても、複数の事業部があればリスクヘッジできるし、ドメイン間での連携もあり、また紹介もいただきやすいから。そこを専属で深堀りしていけば、自分の好きな領域だけできるし、やりたくない仕事はやらなくていい。ただし、『やると決めた分野に関しては徹底的に突き詰めてください』というルールです」
 業務改善のアイデアも、次々と現場から拾われていく。
「こういうものが足りない。こういうものがあったらいいのに。現場にいると敏感にキャッチできる。それをヒントにして事業内に組み込んでいく。現場の意見としてこの政策を打ちたいと言われたら、OKを出して法人としてお金も出して動きます。ビジネスコンテストみたいなものですね。例えば、産業廃棄物業務の依頼を獲得するのに産業廃棄物業界向けの電子契約書事業があったほうがいいと言うなら、そのための会社を本当に作ります。ひとりでできないことも組織だからできる。現場のアイデアを形にするチャンスはたくさんある。とにかく良いと思ったことをやる。風通しよく、本人たちの自立心を育てています。言われたことを正確にやることも大事ですが、やはり業務に特化してもらう以上、業界新聞を読んだり、セミナーに出て自らの能力を高め、自分のサービスの価値をどんどん向上させてもらいたい」
 今後は新しい分野を広げるよりも、既存のものを深堀りして、より専門性高いサービスを広げていく方向だ。
「そちらがまだやりきれていないのに、次に広げることはしません。生産性の話でいえば工数とコストを考えます。5万円の仕事を10時間でやっていたのを5時間で仕上げたら当然時給は上がります。そこはまだ私たちの業界でやればできる部分というのが私の考え。既存の今の仕事のやり方も工夫して工数を減らす、あるいは単価を上げることで、まだまだ売上を伸ばすことができるんです。今どんどん人が増えていますが、やみくもに増やしたいわけではなくて、私たちの働き方で最大限の効果を発揮するために最適な人数構成にするところに非常に気を遣っています。
 今年度の目標は1.2倍の仕事を0.8の時間でこなす。そのためにはまずは新しいことをやるのではなく、効率化を進めつつ、同時に別のサービスも売れるように付加価値を作っていくことだと思っています」
 2018年のめざすところは、新たな拠点展開と介護領域への参入。介護は強みである融資や資金調達と相性がいい。そこに介護に専門特化した専門家と社会保険労務士に参画してもらう方向で模索中だ。

行政書士の学校創設

 話は前後するが石下氏は2013年、行政書士の行政書士による行政書士のための学校を設立した。
「現在では平均20人集まる実務セミナーを年間33回ほど開いているので総計約700名。開業などのイベントはそれぞれ100人ほど集まるので年間1,000人位の行政書士が参加しています。セミナーに来られない人のためにDVDも発売しているので、リーチできている行政書士は相当数いますね」
 学校を始めたのは「資格を取得したけれど、実務がなかなか学べない」という後輩に、実務を学べる場を提供しようという思いだ。
「最初は自分自身、学べる場がなかったので仲間内5人くらいでお金を出し合い、講師を呼んで勉強会を開いていたんです。すると『こういう業務でもやってほしい。こういう人を講師に呼んでほしい』とリクエストが増えてきて、3年目にきちんと一般社団法人にして学校を作ろうとなった。そこで、学びたい実務内容に沿って話をしてくれそうな講師の方に『よかったら力を貸して』と、私が直接声をかけて実現しました。学校が有名になれば講師の先生のブランディングにもなって恩返しができる。そんな思いでがんばっています」
 開業当初集客のために始めたブログは、約10年間毎日続けて、あるブログポータル読者数・士業部門でナンバー1となった。ブログがきっかけで多数の著書も出版し、メディア出演も増えている。Webサイトによる集客の成功でインターネットマーケティングのセミナーも人気が高い。専門家のための学校も設立したし、3年前からは行政書士業界の採用イベントも企画。参加者250人、事務所数20ヵ所を集めた。そうやって行政書士業界を底上げすることで、「人の役に立ちたい」と石下氏は考える。そこには、ハンバーガー屋でアルバイトをしながらうっ屈していた頃の姿は微塵もない。
 10年目となった現在、実務家と経営者と校長、どのような比率で動いているのか聞いてみた。
「私の強みは『誰かに依存するのでなくて周りの人の力を借りながら自分ですべて作っちゃうところ』。そこにチャンスがあると思う。現場にいないとニーズがわからないし、私たちはどこまでいっても自分自身が商品。自分の商品価値が下がってしまうのは死活問題なので、まだまだ現場は続けたい。だから実務5、経営4.5、校長0.5ってところでしょうか」
 石下氏は自ら「行政書士資格を取って救われたひとり」と言う。「だから本当にこの仕事をつきつめたい」思いが人一倍強い。
「いろいろなご縁で人は生かされている。少しでも恩返しできるように、自分も縁を大切にしてつないでいくこと。そして自分の原点である自然あふれる地元のようなすばらしい環境を後世に残していくこと。そのために自分の進む道を、『環境系行政書士』と位置づけて、行政と環境の掛け橋となることに決めました」
 とブログの中で石下氏はそう語っている。振り返れば、それまでのすべての出来事が自分を形作ってきた。開業する時に胸に刻んだこと。それは「母のように仕事に誇りを持ち、決してあきらめないこと。父のように大切な人のために全力で応援、サポートすること」だった。
 社会に出られること。人の役に立てることへの感謝を胸に、石下氏の挑戦は続く。

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