特集 女性が士業をめざすとき

夢、目標、情熱。何が何でもたどり着きたいから、泳ぎきれる体力はつけておきたい。

太田垣 章子氏
Profile

太田垣 章子氏

章(あや)司法書士事務所
代表 司法書士

太田垣 章子(おおたがき あやこ)氏
大阪生まれ、幼少期から小学校5 年生まで台湾で育つ。
神戸海星女子学院卒業。1989年、オリックス野球クラブ入社。オリックス球団の広報担当として3年半勤務。退社後、結婚、出産するもわずか3年で離婚。会計事務所にパートタイマーとして勤務しながら司法書士をめざす。
2001年、司法書士試験合格。その後司法書士事務所に勤務。2002年、簡裁訴訟代理等関係業務認定。2006年、大阪で太田垣法務司法書士事務所開業。2010年、章司法書士法人設立。2012年、章司法書士法人東京事務所開設。2017年、章司法書士法人を解散、東京事務所を章司法書士事務所に組織変更。

 とにかく真摯に向き合う。司法書士の太田垣章子(あやこ)先生は「司法書士はお客様に安心していただくことが一番の仕事」と語る。家賃滞納者と向き合い、賃貸トラブルを解決して「相談してよかった」と言われるのが一番のやりがいと笑顔がこぼれる。理由は、太田垣先生自身が家賃の支払いすらままならない生活を送った経験があるからだ。由緒正しい家柄に生まれ、就職、結婚、離婚、シングルマザーと波乱に満ちた人生。そこから賃貸トラブルのエキスパートに成長し、賃貸滞納による建物明渡案件の裁判で活躍する。そのすばらしい女性力と女性の目線に立った仕事力、そしてなにより「何事にもあきらめない力強さ」を追ってみた。

賃貸トラブル解決なら「章司法書士事務所」

──章(あや)司法書士事務所をご紹介ください。

太田垣 2006年9 月に大阪で太田垣法務司法書士事務所として独立開業しました。2010年11月に事務所を法人化して章司法書士法人に名称変更し、東京と大阪の2 拠点体制になりました。その後2017年に法人を解消して大阪と東京を別運営とし、私の個人事務所として再スタートした東京事務所が、章司法書士事務所です。

──章司法書士事務所の特徴はどのような点にありますか。

太田垣 開業時から賃料滞納による建物明渡訴訟等、賃貸トラブル全般の受託件数が群を抜いて多いのが特徴です。賃貸トラブルの解決を含めた不動産登記を中心に、商業登記、相続・遺言・後見の問題、離婚、親権の問題と幅広く対応して、常に一歩先をいく司法書士像をめざしています。
 賃貸トラブル実務と直結したセミナーや執筆も多く、ハウスメーカーや地域の金融機関からは講演依頼が多数寄せられています。執筆活動では全国賃貸住宅新聞の連載コラムを11年間続けており、セミナーと執筆は、オーナーや管理会社から「わかりやすい」と好評を得ています。

──太田垣先生の司法書士としてのビジョンとはどのようなものですか。

太田垣 何よりもお客様が何を望み、どうすれば安心してくれるのか。お客様に安心してもらうことが司法書士としての最大の使命だと考えています。「依頼してよかった。相談してよかった」と思ってもらえる安心こそ、私たちの提供するサービスです。

一人でオリックス球団の広報誌を担当

──太田垣先生はどのような幼少期を過ごされましたか。

太田垣 天空の城として話題になった竹田城をご存知ですか。私は、その竹田城主・太田垣家の末裔として裕福な家に育っています。姉とふたり姉妹の典型的な妹タイプで、何か起きれば誰かが何とかしてくれるだろうという子どもでした。
 父親は大手商社マンで世界を駆け巡り、私も小学校に上がる前から小学5 年生までを台湾で過ごしています。当時の台湾には面白いテレビ番組がなかったので、日本の絵本や本を何度も読み返していました。
日本語に飢えていたので、帰国すると本屋さんに直行し、多くの本を前に感動したのを覚えています。本好きが高じて、大学時代は雑誌社でアルバイトをするようになり、巻頭インタビュー原稿を書かせてもらえるようになりました。著名人や抜きん出た人の生の話を聞いて、「こんな背景があるんだな」と20歳前後に学べたのは大きかったと思います。沢木耕太郎さんのようなスポーツライターになりたかったのですが、家はプロ野球を観る習慣などない家だったので、野球選手といえば王貞治さんや長嶋茂雄さんくらいしか知らず、セ・リーグ、パ・リーグも知らない娘でした。
ですから「スポーツライターになりたい」と言ったら、「その程度の知識では無理だよ」と言われましたね。

──最初はスポーツライターをめざされたんですね。

太田垣 そうですね。夢を捨てたくないと思っていた私が大学を卒業する年、ちょうどプロ野球球団・阪急ブレーブスの球団運営が阪急電鉄からオリックス(当時:オリエント・リース株式会社)に譲渡され球団職員を募集していました。同じ年に南海ホークスはダイエーに譲渡され、福岡ダイエーホークスになりました。
「ダイエーには広告宣伝部隊が必ずあるはず。でもオリックスは一般顧客を対象としていないので、内部に広告宣伝部隊はないだろう。たとえオリックスが広告代理店を使っているとしても、内部でそれをチェックする人間が必要なはずだし、私なら球団広報誌が作れるんじゃないかしら」
 そんな強い思いで球団に履歴書を送りました。すると1,200倍というすごい倍率!応募者は野球オタクばかりでした。そこから逆に「絶対入社したい!」という思いに火がついて、私は宮内義彦球団オーナーに手紙を書きました。
「雑誌社でアルバイト経験のある私なら、自分でカメラマン、デザイン事務所と契約し、これだけのコストダウンが可能です。しかも今のタブロイド判の広報誌をAB判にして第三種郵便の承認を受ければ、郵送料の大幅なコストダウンになります。私の経験とノウハウを活用すれば、大手広告代理店に頼まずともひとりでできます」と訴えたのです。
 こうして私は1,200倍の倍率を突破して合格しました。
本当にオリックス野球クラブに入社して、球団広報誌の編集・発行をひとりで担当することになりました。月刊なので毎月3号を同時に進めながら、年1回球団イヤーブックを出す超過密スケジュール。シーズン中はずっと選手と行動を共にし、選手の写真管理からスポーツ紙への特集記事の売り込みなど、シーズンオフはキャンプ地へ出向いてリポートや次年度のカレンダー撮影に飛び回り、1年のうち360日くらいは働き続けました。
会社は9時始業ですが、シーズン中でナイターがあれば9時に出社して昼頃グラウンドに行き、ナイターが終わって選手が全員帰るまでいて、印刷会社やデザイン事務所と連絡を取り、打ち合わせをする。寝る以外ずっと仕事でした。それでも若かったし、やりたいことだったので、すごく楽しかったですね。
どうやったらお客様を惹きつけられるのか、キャッチコピーや原稿をどう書けばみんなが読んでくれるのか、鍛えられたのもこのときだったと思います。
 球団の広報担当を3年半経験して、「もう、やることはやった」と思ったら燃え尽きてしまい、そこで退職することにしました。

──退職後はどのように過ごされましたか。

太田垣 お嬢様育ちの私は、親戚も皆お見合いで結婚していたので「そういうものか」と思い、同じようにお見合いしてそのまま結婚。病院の若奥様となって専業主婦になりました。専業主婦は、それはそれで初めて自由な時間を持てて、友だちとランチをしたり、選手の奥様と習い事をしたり、とても楽しい時期でした。ただ子どもが産まれた後にいろんな事件が発覚し、わずか3年で離婚。6ヵ月の子どもを連れて実家に戻りました。

──離婚から、どのようにして司法書士をめざすことになったのでしょう。

太田垣 家柄の良い実家は一変して針のむしろです。「一族に申し訳ない」と言われて異端児になりました。実家に頼れば金銭的には安泰でしたが、幼い頃から「太田垣の娘はこうでなければいけない」というしきたりばかりだったので、「せっかくタブーを侵したんだから自由を手に入れなきゃ。自由を手に入れるためには経済的自立が大前提」と、働きながら子どもとふたりで生きていくことを決めました。
 かといって、知人が紹介してくれる原稿書きの仕事だけで子育てできる自信もありません。私は、なにか働いて食べていけるだけの資格がほしいと思いました。実家に啖呵を切って自立はしたものの、シングルマザーにできる仕事は少なく、30歳という年齢制限で公務員系はすべてアウトでした。国家資格は弁護士、公認会計士、司法書士、税理士しかピンとこなかったのですが、数字が苦手なので会計士、税理士を外すと、弁護士と司法書士が残りました。司法書士がどのような仕事をするのかも知りませんでしたが、離婚でお世話になった弁護士の方に「司法書士ならいいじゃない」と言われて気持ちが動きました。

極貧生活からつかみ取った自由

──受験時代はどのように過ごされましたか。

太田垣 1歳になった子どもを保育所に預けて、アルバイトで原稿書きをしながら受講費用を貯めて、半年間通学しました。その後は会計事務所で働きながら勉強を続けました。

──勤め先はなぜ司法書士事務所でなく会計事務所だったのですか。

太田垣 昼間に司法書士業務をして、夜また司法書士の勉強したら飽きてしまうと思ったのです。昼間はマシーンのように事務作業と入力業務をこなして、夜は気持ちを切り替えての勉強がいいと考えたんですね。
 6年間勉強して、5回目の試験でやっと合格を手にすることができました。

──その間、勤めながら自力で暮らしていたのですか。

太田垣 そうなんです。離婚するまではお金のことなど意識したことがなかった私が、生まれて初めて経験した極貧生活でした。会計事務所からお給料をもらって家賃と受験費用を払うと、手元に3万円しか残りません。そのうち1万円で光熱費、1万円で食費、1万円で雑費を賄いました。
 苦しくて長い6年間で、通勤途中でこのまま車が突っ込んできてくれたら楽になれるのに、と何度思ったことか。そこで初めてお金の価値がすごくわかりましたし、とても良い経験になったと今は思っています。

──心が折れて実家に帰ろうと思ったことはありませんでしたか。

太田垣 実家は、親はもちろん姉に対しても敬語で話さなければならないのが習わしです。姉や母から「あなたのせいで、私がどれだけ肩身の狭い思いをしていると思っているの」と言われる度に「申し訳ございません」と頭を下げるしかありませんでした。
 ですから苦しい生活でしたが、司法書士の勉強をやめようと思ったことはありません。貧乏でもいいから自由がほしかったので、実家は頼りませんでした。

司法書士実務の世界へ

──合格後、実務はどのようにして習得されましたか。

太田垣 実は合格さえすればこの極貧生活から逃れられると思っていたのです。ところが、勤務先を探して30通履歴書を送っても、面接すらしてもらえません。「36歳、小学2年生の子持ち、実務経験ゼロのシングルマザー」を雇う事務所はなかったんですね。最後に履歴書を送った大阪の事務所で、私は開口一番「とりあえず1ヵ月無料で雇ってください。チャンスを与えてもらえないと私もやっていけないので、お金はいらないから雇ってください」と言って、採用してもらいました。事務所は大手企業を顧客にもち、不動産登記メインで商業登記も扱うバランスのとれた好業績の事務所でした。代表はすべての面で見識の高い人格者で、司法書士として遅いスタートを切った私を親身になって指導してくれました。
 お給料は20万円。そこから税金等を差し引いて手取り15万円。合格したら極貧生活から逃れられると思ったのに、これでは子どもを大学に行かせるのも無理です。
そこで思いついたのが、子どもがボーイスカウトや学童ででかける日曜に、不動産会社に飛び込み営業することでした。代表から「自分で仕事を取ってくれば基本給20万円に売上の4割を上乗せするよ」と言われていたので、20万円で生活して、上乗せの4割を貯めて子どもの大学の学費に充てようと思ったのです。
 そこで休日返上で飛び回りましたが、駆け出しの司法書士が飛び込みで営業してもどこも良い返事をくれません。ほとんどの不動産会社には登記を依頼する司法書士がついていたので、30件ほど回ったときに「これは無理なんだ」とわかりました。
「さてどうするか」。そう思っていた矢先、「今家賃を払ってもらえない問題で困っています」という不動産会社に出会いました。ちょうど簡裁訴訟代理関係業務の規定が創設されて、140万円を超えない請求事件は司法書士が裁判の代理業務をできるようになったときでした。
1件も経験はなかったけれど、「それも司法書士がやるようになったんですよ!」とアピールして明渡訴訟第一号を受けさせてもらいました。

─個人で受注した最初の仕事が簡裁代理の訴訟案件だったのですね。

太田垣 はい。営業しても登記は泣かず飛ばずで、賃料滞納に困っている会社に巡り合ったというわけです。なりふり構わずやろうとしたら、当時の司法書士の多くは過払い金請求に奔走していて、周囲に裁判業務の経験者がいません。誰にも聞けずに、自力でやるしかないと割り切り、苦労しながらも賃貸トラブル問題の解決に注力していました。こうして、やっとの思いでトラブルを解決すると、その会社から次々と賃貸トラブルの相談や依頼が来るようになって、それに呼応するように不動産登記の仕事も増えていったのです。

──勤務していた期間はどれくらいですか。

太田垣 4年半です。子どもがいるし自分に経営は無理だから一生勤務でいいと思っていたので、毎日とても楽しく仕事をしていたんですね。ただ、その頃には私の売上が年間1,000万円を超えるようになっていました。
 あるとき代表が突然独立を勧めてきました。「仕事ぶりを見ていると、君は自分でできるタイプだ。もう40歳を超えたし、脂の乗りきっている今がラストチャンスだ。独立しなさい。ダメならいつでも戻っておいで」と背中を押されたのです。
 こうして2006年、40歳にして大阪で開業することになりました。

「立退き交渉やるあやちゃん」で人気者に

──開業当初、どのような業務からスタートしましたか。

太田垣 不動産登記、商業登記、賃貸トラブルが3分の1ずつでした。今でもそうですが、登記というベースがきちんとあった上で相談業務やトラブル対応があります。賃貸トラブルだけがクローズアップされがちですが、とてもバランス良い構成でできています。その他オーナーからの相続系の相談や遺言書、離婚相談もかなり多く、公正証書もよく作ります。
 全国賃貸住宅新聞の11年間連載コラムの他に、オーナーや不動産会社向けの雑誌への寄稿も多く、ハウスメーカーや全日本不動産協会等の公的機関からもセミナー依頼が寄せられています。「賃貸トラブル」・「相続・後見」等をテーマにしたセミナーは、ここ2~3年、年間60~70回担当しています。2018年3月には、世界の建築家安藤忠雄さんとジョイントで1,700人を前に話をしました。

──お仕事のご依頼が多い要因は何だとお考えですか。

太田垣 不動産会社が賃貸トラブルの知識が欲しいからです。賃貸トラブルの相談にのる、だから登記いただける。ハウスメーカーが受注した建替えも居住者が立退いてくれなければ着工できない。一方で、賃貸滞納による建物明渡訴訟など賃貸トラブルや立退き交渉を受けてくれる司法書士はほとんどいません。だから「立退き交渉やるあやちゃん」に大きなチャンスがある(笑)。言い換えると、賃貸トラブルが章司法書士事務所の武器になっているということですね。ちなみに、立退き交渉でこれまで受けた案件は、すべて3ヵ月以内に終わっています。

──現在は個人事務所ですが、法人化されていた時期もありますね。

太田垣 2010年に法人化して名称も章(あや)司法書士法人に改めました。法人化の理由は、東京からのセミナー依頼がとても多くなり、それなら東京に拠点を設けようと考えたからです。といっても東京のクライアントはゼロで、最初の半年間は会計事務所に電話だけ置かせてもらいながら顧客開拓しました。初年度の受注は建物明渡訴訟等賃貸トラブルしかありませんでしたが、現在ではハウスメーカーなど6社と顧問契約を結べるようになっています。
 法人化以来、大阪・東京の2拠点体制でやっていましたが、2017年7月に法人は解消しました。大阪事務所は、大阪をずっと支えてきたメンバーが「自分たちでやっていこう!」という志がとても高かったので「法人は解消して、それぞれがんばろうね。私は東京でがんばるね」となったのです。

資格の枠を超える

──太田垣先生にとって司法書士とはどのような位置付けでしょうか。

太田垣 私はもともとすべての仕事はサービス業だと捉えています。司法書士なら登記ができるのは当たり前。お客様に「司法書士に頼んだからもう安心」と思っていただく部分で報酬をいただいていると思っています。そのために、司法書士業務に限らず、司法書士として培った知識を活かせればと考えています。つまり司法書士という資格にはまったくこだわっていません。 その一例が、現在取締役をしている「R65+(アール65プラス)」という会社です。健常な高齢者に賃貸物件を借りやすくして、同時に賃貸オーナーが安心して貸せる仕組みを提供する組織で、身よりのないご老人の契約や遺言書等法的サポートを通して社会貢献ができています。
 これからも自分の持っている司法書士の知識が活かされるのならそうしますし、活かされないならどんどん違うかたちでやっていきたいと考えています。純粋な司法書士の登記業務は、AI等によって徐々に簡略化されていくでしょう。登記だけでこの先20年、30年やっていけますか?必要なのはコミュ二ケーション力や人間力。どれだけお客様に信用してもらえるかです。
「R65+」のような活動を、いずれはシングルマザー向けの基金としてやっていきたいですね。

──開業後の生活の中で感じたのはどのようなことですか。

太田垣 会計事務所勤務時は、子どもの保育所があるのでタイムリミットは絶対守らなければなりませんでした。そのかわり手取り12万円で、それにボーナスや手当てがついてようやく15~16万円。だから月3万円の生活費でやりくりしていました。 そこから自分で独立してお金がそこそこ稼げるようになったとき、「別に私はブランド品もそれほど欲しくないし、お金はそれほどいらないな。それより自由にいろいろな人たちと会って、役に立って、ありがとうと言われることが嬉しいな」と心の底から感じました。未だにブランド物にはまったく興味がありません。

──もしも資格を取らなかったら、どうなっていたと思いますか。

太田垣 他に選択肢がなかったので、考えたことがありません。そんな過去のことより、この先、60歳、70歳になったらしていたいことは、とてもたくさんあるんですね。いつまでも「夢見る夢子ちゃん」なんです(笑)。

──個人の業務としては、今後資格以外の部分が増えてきそうですか。

太田垣特に意図しているわけではないですが、スタッフに任せられるようになれば、私は広告塔としてもっとオーナーに寄り添ったコンサルティングなど、別の方向に行けると思います。

行きたいんだったら、行くしかない。

──司法書士を勉強している受験生から、「合格したら、司法書士業界でやっていけますか」と聞かれたらなんと答えますか。

太田垣 やっていけるかどうかはあなた次第です。資格を取ったらやりたいことをどんどんやっていけばいいだけです。培った知識を使ってどうやったらお客様に喜んでもらえるのか、どんなサービスが提供できるのか、お客様の求めているものを一生懸命追求していけば、絶対に路頭に迷うことはないはずです。
「合格したら食べていけるでしょうか」という質問自体、ナンセンスです。そんなことを考えるヒマがあるのだったら、一文でも多く条文を読んでください。
「石橋を叩いて渡る」という諺があります。向こう岸に行きたいのに、朽ちて半分しか橋がない。私だったら半分でも渡れるんだったら、泳いででも向こう岸に行きたい。半分まで行けてラッキーと考えます。でも、行かない人は石橋を叩いて、叩いて、叩き割って、「行けなくなっちゃった。ああ、危なかったから良かった」と考える。もったいないなあと思いますね。そんなとき、私は「何が何でも向こう岸に行くにはどうするのか」を考えます。たとえ流されたとしても、泳ぎきれる体力はつけておきたい。行ってから「ああしたい」、「こうしたい」といろいろ考えるけれど、行きたいんだったら行くしかないんですよ。
 なぜ司法書士をめざすのか。少なくとも法律を勉強して、お客様に喜んでもらうためにあれだけの科目を制覇してきたんです。その知識があれば、皆がやっていないサービスの中でお客様に喜んでもらえるサービスがたくさんあるはずです。
 司法書士の資格が取れたのは、司法書士のレースにエントリーできただけ。そこから「どんなレースを戦っていくのか」は自分で考えるべきです。
 私の人生は、何とか学費を稼ぎたいと走り回っていたら賃貸トラブルがあって、誰も教えてくれないけどとりあえずやるしかないと工夫してやってみて、みんなに知ってもらうために積極的に原稿を書いたり喋ったりしていたら、執筆やセミナーオファーがあってと、すべては流れでした。
 ハウスメーカーや国土交通省、総務省からの賃貸トラブル問題の会議出席や、オーナーの相続であったり建物コンサルティングであったり、今いろいろなことをやっていますが、最初からそんなことを狙っていたわけではありません。どうやったらオーナーに喜んでもらえるか、管理会社にどのようなサービスを提供したら登記をいただけるのか、試行錯誤した結果が今の姿なのです。

──プライベートタイムはきちんと確保できていますか。

太田垣 東京に来るまではダイビングをやっていましたが、今はなかなかチャンスがありません。文章を書くことも好きですし、セミナーでお客様に驚きの声を上げてもらうのも好きです。休日は原稿を書いたり、オーナーの物件を見に行きます。そういうのが好きなんです。ブランド物に興味がないので買い物も行きません。それより家でお料理したり、仲間とワイワイおいしいものを食べるほうが好きですね。
 オフでもあまり仕事とプライベートの棲み分けはしていません。好きなことをきちんとやって、今すごく楽しいです。楽しすぎて、毎日「10年後はなにしてようかな」と思うほどです。還暦を迎えた日は、「全身真っ赤で踊りながら事務所に入ってくるよ」って言っています(笑)。それぐらい毎日が楽しいんです。

[TACNEWS 2018年7月号|特集]