日本のプロフェッショナル 日本の弁理士|2019年6月号

Profile

徳岡 修二氏

特許業務法人みのり特許事務所
代表社員 弁理士

徳岡 修二(とくおか しゅうじ)
1959年生まれ、大阪府出身。1983年、同志社大学法学部卒業。同年、カネボウ株式会社入社、特許部(知的財産権センター)に勤務。1999年、弁理士登録。2003年、みのり特許事務所入所。2005年、特定侵害訴訟代理業務の付記を受ける。2006年、特許業務法人みのり特許事務所所長に就任。

お客様が抱える知的財産問題を、
あんじょう解決することが私たちの使命です。

 旧弁理士法が施行された1922年(大正11年)、京都で最初の特許事務所が開業している。その業務を引き継ぎ、今日では京都市で最も大きな特許事務所となっているのが、特許業務法人みのり特許事務所である。その4代目所長である弁理士の徳岡修二氏は、企業の特許部の出身。徳岡氏はなぜ企業の特許部に進み、弁理士となり、特許事務所の所長になったのか。徳岡氏の歩みから事務所の特徴までをおうかがいした。

特許は理系と法律の両方に関係

 京都市の特許業務法人みのり特許事務所は、京都初の特許事務所として1922年(大正11年)に開業した「新実特許事務所」の業務を引き継ぐ、京都で最も歴史ある特許事務所である。現在、その所長を務める弁理士の徳岡修二氏は、数えると4代目にあたる。
「私はもともとカネボウ株式会社の特許部(知的財産権センター)で勤務をしていました。その時のご縁でお誘いいただき、気がつけば所長になっていました」
 そんな徳岡氏はどのような経緯をたどって弁理士となり、みのり特許事務所の所長になったのだろうか。
 大阪・北ほくせつ摂地域で生まれた徳岡氏は高校時代、理系が好きでその方向での進学を考えていた。ところが父親がすすめたのは法学部。徳岡氏はそのすすめに従い、同志社大学法学部に進学した。
「図らずも法学部に進学しましたので、何をやろうかと考えていたとき、特許について教えてくれる先生がいると聞きました。その先生はフランスの知的財産権法を研究する仙元隆一郎教授でした。当時、日本で特許について教える先生は数えるくらいしかおらず、その中のひとりが同志社大学にいたのです。特許は理系と法律の両方に関係します。私はもともと理系が好きでしたから、法学部にも理系に関係する学問があったんだと、がぜん興味を持ちました。
 仙元教授の授業は3回生からが対象で、工学部の学生も受けていました。興味を持った私は2回生のときから勝手に聴講させていただきました。もちろん単位にはなりませんでしたが、ものすごくおもしろかったんですよ」
 その頃は今のように「知的財産」という言葉を聞くことはほとんどなかった。「特許」または「工業所有権」と言われていた時代である。こうして仙元教授から知的財産権法を学んだ徳岡氏は、迷わず仙元教授のゼミで学んだ。
「ゼミの募集要項には、なんと『授業はフランス語で行う』と書いてありました。そのためか、ゼミ生として集まったのは私を含めてたった4名でした。ゼミが始まってから教授に『本当にフランス語で授業を行うのですか』と聞くと、『あれは魔除けです』とおっしゃいました(笑)。
単に人数を集めるのではなく、本気で特許について学びたい学生だけを集めるためだったようです」
 ところで、大学時代から特許について学んでいた徳岡氏は、弁理士について知っていたのだろうか。
「仙元教授から弁理士という資格があることは聞いていましたし、できるなら資格は取得したほうがいいとも言われていました。ところが、当時の弁理士試験は敷居の高い試験でした。合格者が100名もいない、司法試験並みのなかなか合格できない難関試験でしたので、私はめざそうという気にはなりませんでした。そこで、仙元教授に就職先をご紹介いただき、先にお話ししたカネボウの特許部に入りました」

特許部員として特許実務に携わる

 徳岡氏が入社した当時のカネボウは大阪市に本社を持つ会社で、繊維の紡績からスタートし、化粧品や日用品、食品、製薬などに事業を展開していた。
「カネボウに入社し、特許部の配属になりました。特許部には『特許』と『商標』のグループがありました。文系出身者は『商標』、理系出身者は『特許』を担当するものと自然と決まっていましたので、私は『特許』をやりたかったんですが、『商標』の担当になりました。
 ところが入社半年が経つころに、会社として特許取得件数を増やすキャンペーンを始めたのです。すると特許を担当する人が足りなくなりました。そこで私は『特許をやります』と自ら挙手して特許の担当にさせてもらいました。それ以来、カネボウでは特許の担当でした。でも、特許の担当になった当初は『文系に特許ができるの?』という懐疑的な雰囲気も多少は感じていましたね」
 特許のグループは「繊維」と「非繊維」に担当が分れており、徳岡氏は「繊維」の担当になった。大学時代に特許について学んでいたとはいえ、最初は実務については何もわからず、特許明細書も書くことはできなかったという。
「確かに大学で特許に関する勉強はしましたが、学問として学んだり研究したりしていただけですので、実務についてはまったくわかりませんでした。仙元教授も『実務のことはわからない』という立場で教えていらっしゃいました。
 特許明細書をはじめとする特許実務に関しては、繊維グループの課長から手取り足取り教えていただきました。私の父親と同じくらいの年齢の方でしたが、本当に丁寧に教えてくださり、なんとか特許明細書を書くなどの特許実務ができるようになりました。
 当時、課長からも弁理士資格を取得したほうがいいと言われていましたが、私にはまだ、その気はありませんでした」
 カネボウ特許部内には、以前は弁理士資格を持った方がいたこともあったというが、徳岡氏が勤務した当時は弁理士資格を持っている社員はいなかった。徳岡氏も課長のすすめがあったとはいえ、この時はまだ、弁理士資格の取得には向かおうとしていなかったのだ。
「課長からは、『勤め人にとって大切なのは知識と経験をいかに積み上げていくか。会社なんてどうなるかわからないのだから、自分に身についているスキル、持っている資格などが頼りになるんだ』と言われていましたが、若いときにはわからなかったんですよね。
 だから30歳になっても、弁理士資格を取る気はありませんでした。特許部で仕事をしている限り、特許実務ができれば弁理士資格がなくても仕事はひと通りできていたからです。これは他の特許部員も同じだったと思います」

特許の実務能力と弁理士資格は両輪

 こうした徳岡氏を含む特許部員の気持ちが変わったのは、中途採用で入ってきたある特許部員の存在だった。
「その方は、弁理士資格を取得するためにカネボウに転職してきて、最初は技術職だったようですが、その後、特許部に異動してきたのです。仕事だけでなく、弁理士試験の勉強も一生懸命にやっている方でした。私たちは『合格できたらいいね』と応援はしていましたが、実際には本当に合格するとは思っていなかったのです」
 数年後、その特許部員は見事に弁理士試験の合格を果たしたという。きちんと仕事をしていた上での合格だったため、徳岡氏をはじめとする他の特許部員たちは「仕事をしながらでも合格できる」ことに気づいたのである。
「すると何人かが勉強を始めたんです。合格者がひとりいると、どうやって勉強したらいいのかなど、受験のノウハウを共有することもできます。私は第二陣でしたね、勉強を始めたのは。
 結局、私は弁理士試験に合格するのに5年かかりました。不合格でも勉強を続けていくうちにだんだんと模擬試験などの成績も上がってきました。そして、この業界にいる限り弁理士資格と無縁ではいられない。試験に合格したら終わりではなく、そこから新しく始まるんだ。それなら早く合格したほうがいい。その事に気がついたら楽になって、なんとか合格することができました。
 受験時代は土日も勉強以外のことは考えませんでしたので、合格したあとは困りましたよ、土日って何をすればいいんだろうって(笑)」
 部員の弁理士試験挑戦について、当時の特許部長が「会社として支援するシステムはないけれど、心としてはみんなに弁理士になってほしい、応援している」と語ってくれたことも、大きな支えになったという。そして合格者を応援する意味も込めて、弁理士の登録費用や年会費などは会社負担になるように会社に掛け合ってくれたのだ。
 またその頃、業界などの特許部の集まりがあると必ず「なぜカネボウの人たちは合格するんですか」とよく聞かれたというから、カネボウ特許部員の弁理士試験合格は、業界でも評判になっていたようだ。
 徳岡氏は資格を取得したことで新たに気づいたこともあった。それは、特許の実務能力と弁理士資格は両輪であり、両輪が揃ってこそ、知的財産の道をまっすぐに進めるということだ。
「未経験の案件に取り組む際も、弁理士資格を持っていれば、習得した知識によってやるべきことの全体像がわかるため、その案件が今どこに位置するのか、どこまでやればいいのかがわかります。でも資格がなければその位置がわかりませんので、どこまでやればいいのかがわからずに不安になると思います。全体像がわかった上で話ができるということは、強みにもなるんです」

特許事務所に転職し商標を手掛ける

 企業の特許部に勤務している場合、弁理士資格を取得したからといって、それだけで仕事内容が大きく変わるわけではない。それは徳岡氏も同様だった。しかし当時、カネボウという企業そのものに変化が訪れようとしていた。本社機能の東京への移転である。それまでは大阪本社に管理部門などの本社機能があり、特許部もそこにあった。しかし、本社機能のほとんどが東京に移ることになり、それは特許部も同様だったのだ。さらに徳岡氏の立場もまた変わろうとしていた。管理職になるタイミングが近づいていたのである。
「弁理士資格を取得したからといって、私は独立しようなんて気にはなりませんでした。ただ、管理職になるのは嫌だなと感じていましたし、そもそも弁理士になれば管理職とは関係ない立場になれるのではないかと考えたことも、資格取得の動機のひとつではありました。ですから、勤め人として本社機能の移転とともに東京に行くという選択肢もあったのかもしれませんが、私はその選択はしませんでした」
 そのタイミングでみのり特許事務所の当時の所長である武石靖彦氏に「うちに来ませんか」とオファーをもらった。徳岡氏とみのり特許事務所との関係は、企業の特許部員とそこから依頼を受ける特許事務所という関係だった。徳岡氏が担当していた繊維分野の特許出願を依頼していたのだ。というのも、京都はもともと繊維産業が盛んな土地であり、京都の老舗であるみのり特許事務所は、カネボウの本社があった大阪を始め、地元の繊維産業との付き合いが多く繊維分野の特許に強かったからだ。
 冒頭でお伝えしたように、みのり特許事務所の前身は1922年(大正11年)に新実芳太郎氏により設立された、京都初の特許事務所「新実特許事務所」である。1967年(昭和42年)には息子である新実健郎氏が事務所を引き継いだ。そして、新実健郎氏の病気を機に1995年(平成7年)に武石靖彦氏が事務所を引き継いだのである。その翌年には事務所名を現在の名称である「みのり特許事務所」に変更している。
 徳岡氏がカネボウを退社して、みのり特許事務所に勤務をし始めたのは2003年のこと。
「私へのオファーは、商標を担当してほしいというものでした。商標はカネボウ入社当初に少し担当しましたが、実際には初めて取り組むようなものでした。そこからは商標100%で今日までやってきています。
 実はみのり特許事務所は特許と商標の案件が半々という珍しい事務所です。現在では、伝統ある老舗からベンチャー企業まで約1万件の商標を管理しています。事務所の2代目にあたる新実健郎がお客様をずいぶんと増やして、その際に数多くの京都の老舗の商標を管理するようになりました。私が入る前には商標専門の弁理士がいない状況になっており、数多くの商標を担当する弁理士が必要な状況だったのです」
 こうして徳岡氏はみのり特許事務所に転職し、改めて弁理士としてのスタートを切ったのである。「商標に取り組んでみて、特許とは違う難しさを痛感しました。特許はそのベースとなる発明があり、それを記した特許明細書があります。特許請求範囲も決まっていますから、仮に議論となっても論理的に説明することができます。ところが商標の場合、商標出願をして類似になった、非類似になったということの違いを説明するのが非常に難しいのです。実際に商標登録ができるかは別として、2つの商標の文字や図形を見比べて、単に『似ている、似ていない』と言うことは素人でもできるんですが、こうした類似・非類似の違いなどを論理的に説明できるようになるまで10年近くかかったと思います」

法人化により業務継続性を確立

 みのり特許事務所に入って3年目の2006年、徳岡氏は所長に就任した。そして所長に就任する際に特許業務法人化を果たしている。
「管理職になりたくないことが理由のひとつでカネボウを辞めたはずなのに、管理職の頂点ともいえる所長になることになりました(笑)。そして私が所長を引き継ぐという話をしている中で、みんなから自然と法人化の話が出ました。その時に法人化のメリットをきちんと考えたわけではなかったのですが、みんなから話が出たので、『じゃあ、やりましょう』と法人化したのです。
 決して先を見越していたわけではありませんが、法人化にはさまざまなメリットがありました。まず個人事務所だと代表の弁理士が亡くなると業務ができなくなります。その特許事務所に複数の弁理士がいたなら業務は続けられるでしょう。でも特許出願に必要となる委任状を再度お客様に書いてもらわなくてはなりません。というのも個人事務所の場合は委任状の代理人は個人になるので、担当が変わると再度委任状を書いていただく必要があるからです。法人であれば、委任状の代理人は法人名ですから、そうした必要はありません。また、商標の場合は更新が10年おきですから、事務所内の担当が変わっている可能性は高いと思いますが、そうした際も、法人であれば委任状の代理人が法人名なので、担当が変わっても問題はないのです。
 このように業務の継続性という意味では法人化は大きなメリットだと思います。継続性があるということは、お客様は安心して仕事を依頼できますし、スタッフも安心して長く勤めることができます。また、資産関係も法人名のものは法人のものとはっきりしていますので、次の代に引き継ぐ場合もスムーズにできると思います」
 現在、みのり特許事務所は総勢25名で、そのうち弁理士は8名という陣容である。先にお話ししたように、商標が案件の半分を占める珍しい事務所だが、特許や実用新案、意匠、商標、訴訟・契約など、知的財産に関連するほとんどの業務を行っている。
 大企業やベンチャー企業、個人発明家などから依頼される特許に関しては全技術分野に対応しており、海外出願に関しても、海外の代理店と提携し対応している。そして、ライセンス交渉やライセンス契約、侵害警告、侵害訴訟、仲裁、和解、輸出入差止めなど、お客様の知的財産権に関する諸問題をサポートしているのだ。
 業務に関しては、基本的に1出願1担当者制を採用しており、出願から権利取得までを1人の担当者が専門スタッフと協力しながら責任をもってサポートしている。そして、お客様とのコミュニケーションを大切にしていることも特徴と言えるだろう。出願書類の作成に際しては、担当者が出願されるアイデアについて丁寧にインタビューを行うとともに、手続の流れや費用などについても、納得いただくまで説明しているという。
 事務所内は特許チームと徳岡氏を中心とする商標チームに分かれているが、商標に関しては特許チームの弁理士が手掛けることもある。
「特許でお付き合いのあるお客様が商標登録をされたい場合、特許を担当する弁理士がそのまま商標登録を行うことがあります。その辺は、厳密には分けないようにしていますし、ちょっと商標を勉強してみたいのなら、それでいいと思います。もちろん弁理士には得意とする技術分野など専門はありますが、それだけにとらわれる必要はないと考えています」

安定的かつ緩やかな成長をめざす

 事務所の規模については、徳岡氏が入所した頃から事務所の人員的な規模はほとんど変化していないという。特許などの受任件数も大きな変化はないという。
「2008年に起きたリーマン・ショックの際もほとんど影響は受けませんでした。大阪や東京の特許事務所の中には大きな影響を受けたところがあるとお聞きしていますが、うちは堅実に推移していますね。逆に劇的に増えるということもないのですが」
 事務所の弁理士やスタッフも途中で辞める人がほとんどおらず、独立していった弁理士もほとんどいないという。そのため、新卒を採用したことはなく、欠員が生じた際に中途採用を行うだけだという。なぜ、辞める人がいないのだろうか。
「いち弁理士として、やりたいことができているからだと思います。うちは決して高い報酬を払っているわけではありませんので、実際に入所していただく前の面接で必ずお伝えしていることは『高い報酬がほしいのなら大阪の事務所に行ってください』ということです。そこまでの報酬は出せませんからね(笑)。
 弁理士としてやりたいことができる、ということは弁理士をはじめ士業のいいところでもあると思います。例えば、お客様からある技術を実施したいと依頼されても、他の特許を侵害しているものは実施することはできません。『これはダメです』とはっきりと言わなければなりません。会社勤務の場合も同様で、相手が上席であってもダメなものはダメと言わなければなりません。自分が信じることを躊躇なく言い、相手にも真摯に受け取ってもらうためには弁理士などの資格が役に立つんです。責任はもちろんありますが、やりたいことができるのは士業のひとつの特権でしょうね」
 では、採用する際にはどんな人を求めるのだろうか。
「中途採用ばかりですから、ちょっと矛盾した言い方になりますが、若くて経験豊富で人間性がよい方がいいですね。手取り足取り教えることはできませんから、ある程度は自立して成長していける方を採用しています」
 みのり特許事務所は今後も京都を中心とした企業や発明家、老舗などの特許や商標を扱っていく方向に変化はなく、安定的かつ緩やかな成長をめざしていくようだ。

複数の特許分野の経験を

 企業に在勤中に弁理士資格を取得して弁理士となり、その後転職をして特許事務所の所長となった徳岡氏だが、弁理士という資格についてはどのように捉えているのだろうか。
「弁理士になってよかったと思います。企業勤務のときは、仕事として特許業務はできて当たり前でした。ところが、弁理士としてこの事務所で仕事をするようになると、お客様がわざわざ事務所を訪ねて来られて『おかげさまで登録になりました。ありがとうございます』と言ってくれる。ああ、そう言っていただける仕事なんだとうれしく思いました。勤務時代にはなかったことですからね。
 また、お客様から『うちはよくわからないから、よろしくお願いします』と言われて、『あんじょう(具合よく)解決すること』が京都に根ざした事務所としての、私たちの使命だと考えています」
 また、知的財産という言葉をずいぶんとあちらこちらで目にする機会が増えているが弁理士としてはどう捉えているのだろうか。
「私が大学で勉強していた頃、特許については一般には知られていませんでした。しかし、就職した頃から、知的財産という言葉が新聞やニュースにでも出てくるようになりました。そして、今日では国家間の貿易交渉の重要項目のひとつにもなり、知的財産という言葉がずいぶんと知られるようになりました。
 しかし、実際の知的財産や特許の意味までわかっているのか、なぜ知的財産を尊重しなければならないのかまではまだまだ浸透していないと思います。
 地道な作業かもしれませんが、弁理士としては知的財産の意味の浸透のために、これからも啓発的な活動を続けていかなければならないと考えています」
 事務所には一般の方が「このアイデアは特許になるのではないか」と訪れることもあるという。その際は、こういう手順で特許の申請を行い、それにはお金がいくらかかるのか、そして仮に特許を取得できたとしても、それだけですぐに儲かるわけではなく、特許を利用した製品にならなければ儲けにはつながらないことを話すという。
 「特許を取得するには、他の人がどういう特許を持っているのかを調査する必要があり、調査という地道な作業にも費用はかかります」とお話しすると「大変なんですね」と理解してもらえるという。
 最後に、これから弁理士をめざす方へのメッセージをいただいた。
「特許の世界には、『企業の知的財産部や特許部』、『特許事務所』、そして特許などの審査を行う『特許庁』の3つの分野があります。この3つの分野を経験すると特許の世界がより理解できると思います。私は企業と特許事務所を経験してきましたが、さすがに年齢的にも特許庁を経験するのは無理だと思いますし、今さらやろうとは思いません。ただ、特許や知的財産に関わっていこうとしたら、3つの方向性があり、どれか1つではなく2つ、3つの世界を見ることができたらもっと全体がわかってよりおもしろくなると思います。
 いろいろな方向から特許を見ると、見る方向によって見方が変わってきます。企業は自分の技術を守り競争に勝つために特許を求めます。特許事務所は企業の依頼に応え、なんとか特許を取得して権利化できるように務めます。特許庁は、申請を審査して特許を与えることで日本経済の役に立つのです。3つの方向からの考え方がわかれば、特許がよりわかってくると思います。
 私からの支援は何もできませんが、弁理士をめざして勉強される方のことは心から応援していますので、がんばってください」
 企業勤務時代の上司が徳岡氏ら弁理士試験をめざす部員たちを心から応援したように、徳岡氏もこの道を志している人たちを心から応援している。


[TACNEWS|日本の弁理士|2019年6月号]

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