LET'S GO TO THE NEXT STAGE 資格で開いた「未来への扉」 #25

Profile

北村 亮太(きたむら りょうた)氏

外資系コンサルティングファーム勤務
中小企業診断士
ファイナンシャル・プランナー

1991年10月生まれ。兵庫県宝塚市出身。幼少期から多くの時間を、料理店を経営する祖父母と過ごす。関西大学化学生命工学部卒業。国税局で働きながら、中小企業診断士とファイナンシャル・プランナーの資格を取得。その後外資系コンサルティングファームに転職。将来はコンサルティング業界での起業をめざしている。

【北村氏の経歴】

2010年 18歳 祖父母が営む料理店を継ぐことを念頭に、関西大学に入学。
2012年 20歳 大学2年のとき、祖父母の料理店が閉店。「自ら起業する」ということに意識の軸がシフトする。
2014年 22歳 国税局に入局。多くの経営者と接する中で、経営や会計、税務の考え方に触れる。
2016年 24歳 将来的な起業を見据え、FP技能検定試験、中小企業診断士試験に合格。
2017年 25歳 中小企業診断士登録。外資系コンサルティングファームに転職し、新規事業立ち上げ支援や新会社設立支援、業務集約を含む、改革支援などの仕事に従事しながらスキルを磨き、コンサルティング業界での起業をめざす。

将来を見据えて取得した資格をステップに、大いなる未来への扉を開く。
若い起業家を支援する夢に向けて今日も着実な一歩を踏む。

資格取得をひとつのステップと考え、将来の大きな夢に向けて着実に歩み続ける。北村氏は、まるで人生の設計図を初めから持って生まれたかのような「踏み外さない」人生を一見、歩んでいるような人物だ。しかし、そこには少年時代の夢の挫折や、約束されていた将来の頓挫など、数々の苦難もあった。そして、平日は実家、週末は料理店を経営する母方の祖父母の家と行き来する日々の中で培われた知見や経験が、独自の武器となって未来へつながっている。そんな北村氏の、資格から始まる人生設計についてお話をうかがった。

経営者の家庭と公務員の家庭
2つの家を行き来する少年時代

 北村氏の生家は宝塚。甲子園球場のすぐそばだ。阪神タイガースの試合や高校野球の甲子園大会があると、街中が試合の進行や結果についての話題で盛り上がる。その影響で小学校時代から野球を始め、プロ野球の選手になりたいと思っていた。ポジションはピッチャーと内野手。ところが中学校に入って2年目に肘と肩を痛めてしまう。高校に入ってからも肘と肩をだましだまし野球を続けていたが、硬式ボールになるとボールが重くなった分さらに負荷がかかり、ケガの痛みが増し始めた。長く続けてきた野球だったが、高校1年で退部してしまう。
「退部したあとは、まずは野球の代わりに勉強をがんばろうと思いました。自分は数学や化学、物理が得意で、英語が大の苦手。進路指導にあたってくれた担任の先生からもお前は理系だなと言われていて、疑わずにそうなんだと思っていました。その頃はまだ将来についての考えはまったくなくて、ただ漠然と、自分は理系だと決めていたのです」
 そんな北村氏の母方の実家は、仕出し料理を提供する料理店。慶事や仏事の料理を用意して会場に運ぶほか、おせちや仕出し弁当の提供も行っていて、北村氏が通っていた学校の教師向けにも弁当を配達していたという。北村氏は幼少期から、平日は両親の家で学校と野球中心の生活、そして週末になるとその料理店を営む祖父母の家で過ごすという生活を送っていたという。公務員として兵庫県で文部科学省の仕事をする父と、料理店を経営する祖父母。両家は徒歩1分ほどの近距離だった。公務員の家庭だけでなく、経営者の家庭で過ごす中で、「栄養」「化学」「経営」というキーワードが頭の中でつながり始めていた。そして、それは将来に向けて大きな影響を与えていくことになる。
「大学進学を決める段階で、栄養を化学的な視点で考えてみたいと自然に考えました。そして理系の大学への進学を決意して、現役で関西大学に合格しました。進路選択にあたっては、大前提として祖父母の料理店を継ぐのだという考えがありましたね。小さい頃から周囲には“10年後は社長さんだね”などと言われていましたし、自分でもなんとなくそうなのかと思っていましたから。経営についても、祖父母との会話や、連れて行ってもらった仕事場での空気感などから、店を運営するにはどんな責任があって、どんなことをしなければならないのかということを、漠然とですが感じていました」
 しかし大学に入って2年目、北村氏が20歳のときに、料理店を畳むことが決まった。社会環境の変化で仕出し弁当の利用者が急激に減ってしまったことが理由だった。自宅の和室にみんなを集めて葬式を執り行うという習慣が減り、そもそも大勢を呼べる和室を持つ家も少なくなり、葬儀会場は専門のホールに譲ることになった。格安の弁当を提供するチェーン店などが増え、仕出し弁当の利用も減るばかりだった。

突然見えなくなった将来
自分で切り開こうと決めた転換期

 「ずっと会社を継ぐつもりでいましたから、いきなり梯子を外された思いでした。でもそのとき、自らの手で道を切り開くという発想が生まれてきたのです。まだ感覚的なものでしかなかったのですが、起業する、自分で事業を立ち上げるといったことにチャレンジしてみようと考え始めました」
 誰かが敷いたレールの上を走るのではなく、自分で新しい道を切り開く人生を送る。料理店の閉店によって、北村氏にはそんな未来がおぼろげながらも見えてきていた。
「起業するという意識が芽生えてから、社会へ出てどうするかを意識し始めました。そこで思いついたのが国税局へ入るという道です。将来、起業するためにはどんなスキルが必要だろうかと考えたとき、会計や税務の知識は非常に役立つものだと思いました。また、経営者にとってある意味怖い存在である国税局出身だとなれば、自分の存在に重みを持たせることもできるのではと考えたのです。そして国税局の仕事では、会社の経営者と直接話をするわけですから、経営者の生の声に直接触れることができて、考え方や意見を学べるという点が魅力でした」
 そもそものきっかけは、大学2年のときの税務申告のアルバイト。時給がいいからと始めたが、仕事をする中で、会計や税務の知識は起業をめざす自分にとって、確かな力になると感じたのだった。
 そして大学3年の4月からは公務員試験の準備をスタート。並行して、12月に就職活動が解禁になると民間企業への就職も視野に入れ、のべ120社ほどの会社に応募した。公務員試験と就職活動の両立は負荷が大きいと言われる中、将来的な起業を見据えていた北村氏は、起業に結びつきそうだと感じた会社には果敢にアタックしたのだった。結果、公務員試験に合格し、国税局に進むことになる。
 国税局の仕事を通じて、税務や会計のスキルが身についたと話す北村氏。また、社長たちと課題を考え経営の論点を話し合うことや、仮説思考という、限られた情報から可能性の高い結論を仮説として設定して、その仮説の実証、検証、修正を行うといった、コンサルティング的なスキルも身についたという。「コンサルティング」というキーワードが北村氏の中で重みを増してきたのだ。
 国税局に入って3年経ったら自分で会社を始めたい。その目標に向け、国税局で働きながら中小企業診断士(以下、診断士)資格の取得に向けて勉強を始めた北村氏は、2015年8月に1次試験、2016年12月に2次試験の合格を果たした。幸い公務員の仕事はほぼ定時には終わることができたため、国税局のある西成からTAC梅田校まで直接行けば、18時から始まる講義時間にも十分間に合った。また梅田は帰り道でもあったので、講義のない日でもTACには毎日通い、18時から21時までほぼ1年間、しっかりと勉強を続けた。
「TACを選んだ理由は、とにかく早く合格するために、合格者が一番多くてノウハウが豊富なところで学ぼうと思ったからです。他の受験指導校の体験講義も受けてみましたが、最終的に、TACの講義が一番わかりやすいと思って選びました」
 1次試験の合格後には、ファイナンシャル・プランナー(以下、FP)の資格も取得したという北村氏。そして2次試験の合格後、2017年には所定の診断実務従事を行い、春には診断士登録を済ませた。国税局に入って3年、ちょうど入局当初に想定していた独立の時期だった。この3年目にして特別調査部門で累計3億円以上の所得申告漏れを指摘するなどの活躍を見せていた北村氏だったが、経営のスキルもノウハウも、まだまだ自分自身で十分とは思えなかった。今、独立すべきか否か。そこにはまだ迷いがあった。そこで北村氏は、外資系コンサルティングファームへの転職を試みる。転職にあたっては、国税局にいた経験が大いに活きた。そして「コンサルティングの仕事は95%が東京に集中している」という話を聞いて、東京への進出も決心した。

将来の夢は、若い人たちの起業支援
そのために経験を積み、真の人脈を育てる

 外資系コンサルティングファームでは、主に新規事業立ち上げ支援や新会社の設立支援業務に従事。国税局OBという経歴、そして診断士やFPといった資格も背負いながら、人脈を築き、次のステップへと歩み始めている。この“人脈”について北村氏は、独自の考えを持つ。
「『人脈』という言葉を安易に使うのは好きではないですね。本当の人脈というのは、わからないことがあったときにも気軽に電話して聞き合える間柄のことを言うと思っています。SNSでつながっているだけとか名刺交換をしただけの関係は、人脈と言わないと思います」
 そんなうわべだけではない人脈を構築する北村氏には、将来へ向けて大きな夢がある。
「独立したいという思いは、祖父母が料理店を畳んだ20歳の頃からずっと持っているので、いずれ叶えたいです。資格の取得もその目標に向けたステップでした。会計を含めた戦略コンサルティングを軸に、コンサルティング会社を立ち上げて、その他にも複数の事業体の柱を持ちたい。その柱のひとつとして、診断士としてのコンサルティングも考えています」
 資格の取得がひとつの自信となって、新しいことへ挑戦するためのスタート地点に立てたと語る北村氏は、さらにその先の夢も描いている。
「50歳、可能なら40歳からでも、私の経験や人脈を活かして、大学生のベンチャー支援やスタートアップ支援をしたいと思っています。学生の頃、就職活動をしていたときにも、先輩や後輩、同年代で起業したいという人は多かったのですが、自分も含めて何をしたらいいかわからないという歯がゆさがありました。でも、やりたいという熱意はものすごくある。そういう若い人たちと、経験を積んだ未来の自分がタッグを組めたらおもしろいのではないか。そのために、今から資金力もつけていきたいと考えています。参加するときはボランティアのような立場でいいんです。でも、投資もするし、しっかり助言もする。仮に100社を支援したとして、そのうちの1社でも上場につなげられれば、その株の1%を持たせてもらえるだけで十分なメリットがありますよね。“エンジェル投資家(※)”と言われるような、そんな存在になりたいです。それにはまず、自分がしっかりと稼げるようになること。これが当面の目標です」 (※)創業間もない企業に対して、必要な資金を供給する個人のこと。
 大学の入学試験はストレート合格、新卒で国税局へ入局、そして診断士とFPの試験もスムーズに突破と、順風満帆なイメージの北村氏。だが自身の歩んできた道は決して平たんなものではなかったと語る。
「プロの野球選手をめざしていたのに致命的な傷を負い、あきらめざるを得ませんでした。それに、大学も本当は、私立の医学部の次に難しいと言われている栄養学のほうに進んでみたかったのです。でも、もし栄養学の道に進んでいたら、祖父母の料理店がなくなったあと、学校給食を作る先生や、老人ホームで給食を作る栄養士や調理師といった、まったく別の仕事をしていたかもしれないですね。もともと料理には興味があって、家では炊き物など手の込んだものも作りますし、本格的な牛刀や刺身包丁、出刃包丁とペティナイフも持っているくらいですから」
 それでも、自分の進むべき道については自分なりの考えに基づいて選び取り、歩みを進めてきた。「経営者的」とも言えるその視点は、どうやって身につけたのだろうか。
「子どもの頃に多くの時間を経営者である祖父母と過ごしたことが大きいかもしれませんね。また、意識的に経営者の方にお会いするようにしてきたことも影響していると思います。経営は、成功しているタイミングもあればうまくいかない時期もある。私の場合は、誰か特定の師匠のような人に教わって、という形ではなく、そうした『経営の波』を目の当たりにしながら、経営者的な視点を身につけてきたのかなと思います。自己破産したからといって、決して能力が劣っていたとか、経営の才能がなかったということでもないと思うのです。失敗しても生きていける、そんな姿を見られたことも大きいですね」
 自らの起業、コンサルティング会社の設立へと歩みを続ける北村氏。コンサルティングに対するスタンスも明確だ。
「自分の持っている知識をただそのまま提供するだけのコンサルティングでは、今後は厳しいだろうと思っています。今の時代、知識を持っているというだけでは、強みとは言えない。単なる知識だけなら、誰でも調べることができるし、他にも知っている人がいるはずだからです。大切なのは、自分の知識をベースに、クライアントが抱える問題点をあぶり出し、課題の解決方法をいくつか示してメリットとデメリットを指摘しながら一緒に方向性を考え、経営者が最終判断を下しやすくすることだと思います。そのためには話す相手によって言葉を変えていくことも重要です。決定権のない人にいくら重要な提案をしても無駄なように、立場や環境が異なれば、生きているステージもそれぞれ異なります。私は、そういうことも意識して言葉を選び、コミュニケーションし、クライアントに寄り添えるコンサルティングをめざしていきたいです」
 10年、20年後、北村氏の支援で、若い起業家が成功を掴んでいく将来が楽しみである。

[『TACNEWS』 2020年10月号|連載|資格で開いた「未来への扉」]