日本のプロフェッショナル 日本の会計人|2023年10月号

甲田 拓也(こうだ たくや)氏
Profile

甲田 拓也(こうだ たくや)氏

公認会計士税理士甲田拓也事務所 代表
公認会計士 税理士

1978年生まれ、神奈川県横浜市出身。小学4年生の夏から香港、小学6年生の夏からイギリス・ロンドンに移住。1993年、ドイツ桐蔭学園(当時)に入学。同年、日本に帰国。1996年、桐蔭学園高等学校卒業。2001年、早稲田大学商学部卒業。2002年、公認会計士2次試験(当時)合格。同年、中央青山監査法人(当時)に入所し、5年弱勤務。2007年から3年間、個人事務所に勤務。2009年10月、公認会計士税理士甲田拓也事務所を設立。現在に至る。

父子家庭で子育てしながら社長業ができるのは、
公認会計士だからです。

 2009年に開業した公認会計士税理士甲田拓也事務所は、開業した当初の年間売上はわずか50万円だった。それが2023年現在、年間売上高3億円、クライアント数400件、スタッフ数29名にまで成長している。成長の要因は、監査で培った知識を駆使して、中小企業や小規模事業者、個人事業主の資金繰りやキャッシュフローの相談に対応してきたことだけではない。代表の甲田拓也氏に、成長の背景、資格取得のきっかけ、勤務時代や独立開業のエピソード、組織の成長と今後めざす方向性、そしてプライベートまでをうかがった。

友人に勧められて公認会計士をめざす

 神奈川県横浜市に生まれた甲田拓也氏は、小学4年生の夏から香港、6年生の夏から中学を卒業するまでをイギリス・ロンドンで過ごした。高校はドイツにあるドイツ桐蔭学園(当時)に入学し、高校1年の夏に帰国して桐蔭学園高等学校に編入した。わかりやすく言うと、育ち盛りの約6年間を海外で過ごした帰国子女。世界には多様な人種がいることを肌で感じながら過ごしてきた甲田氏は「海外での経験は、私の人格に多少なりとも影響している」と語る。

 高校1年で横浜の桐蔭学園高等学校に編入して一番に感じたのは、海外の抜きん出て優秀な高学歴・富裕層の子どもたちに比べ、優秀ではあるがごく普通の高校生がいることだった。「ロンドンやドイツでは、常に『自分はできない』というコンプレックスを感じていた」という甲田氏は、帰国して「背伸びしなくてもいいんだ」と安堵し自信を取り戻した。

「この学校は当時1学年1,800名のマンモス校でした。個性が強いたくさんの学生たちの中で、自分のキャラクターを出すにはどうすればいいかをよく考えていましたね。約6年間の海外生活で感じた劣等感と帰国後のマンモス校での経験は、今の原動力になっています」

 大学進学では早稲田大学と慶應義塾大学のみを受験。残念ながら現役では不合格となった。

「実は、将来は独立して専門性の高い仕事をしたいと思い、弁護士をめざして法学部を受験しました。けれども両大学とも不合格。一年浪人して合格したのが、早稲田大学の商学部と教育学部、そして慶應義塾大学商学部でした。早慶どちらの商学部に進むか考え、最終的には姉が通っていて自分の性格的にも合っていそうな早稲田大学商学部を選びました」

 大学生になった甲田氏は、弁護士をめざして商学部と専門学校のダブルスクール生活に入る。同時並行でESS(英会話)サークルと体育局の合気道部に所属したが、半年もすると司法試験にもサークル活動にも、当初の情熱を感じられなくなってしまった。中ぶらりんな状態でいると、商学部に通う友人が「甲田、弁護士をめざす話はどうなった?司法試験の合格率は3〜4%(当時)、商学部なら公認会計士(以下、会計士)のほうが、勉強範囲が重なるし合格率が10%ほどあって受かりやすい。それにお金も稼げるらしいぞ。甲田には会計士のほうが絶対向いているよ」と言ってきた。

 それまで法曹以外の選択肢は考えていなかった甲田氏。大学生協に置かれていたパンフレットで初めて会計士合格実績トップクラスのTACを知り、大学1年の10月からTACの1.5年L本科生の受講をスタート。会計士への第一歩を踏み出した。

専門性を持って独立したい

 甲田氏は、幼い頃から「欲しいと思ったもの、なりたいと思ったことは必ず叶えられる」と信じていた。

「努力できる子だと言われ続けて育ったのが大きいかもしれません。今でもよく覚えているのが、香港で日本人学校に通っていたときのことです。エリート家庭に育った頭のいい子たちの中で、私の成績は5段階中1~3。小学4年生ながらこれはまずいなと思って、泣きながら家に帰りました。そんな私を見て、母は私の負けず嫌いな性格を見抜いたのでしょう。『あなたは努力する力だけは人一倍あるから』と言い含めて育ててくれたのです」

 努力を続ければ夢は叶えられる。自分への絶対的な信頼があったので、大学受験で浪人したときも、大学3年まで会計士試験の模擬試験がE判定で成績がまったく伸びなかったときも、まったく焦りを感じなかった。

「大学3年までは会計士がどんな仕事をするのかもよくわからず、本腰を入れた勉強はしていませんでした。スイッチが入ったのは、大学4年のとき。妻とつき合い始めてからです。彼女は、同学年でゼミが一緒の会計士受験仲間でした。なかなか火がつかない私に、『あなたが受からなかったら、私は別れて地元の長野に帰って就職する。ちゃんと勉強に集中しなさい』と発破をかけてくれたのです。そこから本格的に勉強したら一気に偏差値が伸びました」

 早稲田大学を卒業した翌年の2002年10月、甲田氏は晴れて会計士試験2次試験(当時)に合格。中央青山監査法人(当時)に入所を決めた。一方の奥様は税理士試験の会計2科目合格で赤坂の会計事務所に勤務。その後、社会保険労務士が向いているのではという甲田氏のアドバイスで資格を取得し、甲田氏の独立後は、甲田事務所で甲田氏のサポートをすることになる。

 甲田氏が選んだ中央青山監査法人は当時、Big4と呼ばれる大手監査法人の中でも日本最大手の規模だった。そこで5年弱、法定監査8割、IPO支援2割の比率で、上場企業などの金融商品取引法監査、商法監査、IPO支援に携わった。中でも年間の3分の2の期間、伸び盛りのコンビニエンスストアと勢いに乗るインターネット証券に関わった経験は、現在の仕事に大いに活かされている。何より、チームにはエース級のメンバーが勢ぞろいしていたので、彼らの背中を追うことに夢中だった。「これだけ大きな監査法人だから、勤め続けて出世して海外で活躍するのも楽しそうだ」と考えたこともあるという。しかし弁護士をめざした頃から憧れていた「専門性を持って独立すること」に対する思いは揺るがなかった。

 監査法人退所の決め手となったのは、某大手企業の粉飾決算の不祥事だった。甲田氏が直接関わったわけではないにせよ、所属内で起きたことであり、組織は不安定な時期に入った。そろそろ独立するための修行を行わねばと考えていた時期とも重なり、2006年に退所する意思を固めた。

 2007年1月からは奥様が勤める赤坂の会計事務所に入り、翌月に税理士登録。中小企業を対象とした税務を一から学び、監査も税務もできる会計士・税理士をめざした。そして2009年10月、退職して公認会計士税理士甲田拓也事務所の看板を掲げた。

伸び悩みを経験するも東京進出で急成長

 独立に際して、甲田氏は前事務所から2ヵ月ぶんの給料を退職金としてもらい、それを開業準備に充てることにした。加えて、事務所の収入がない間は、監査法人時代の上司が勤務する監査法人でアルバイトとして従事。当時、監査のアルバイトは1日5万円をもらえたので、年間100日働けば500万円の収入になる計算だ。ただ、個人事務所のほうはクライアントがまだ1社もなかったので、家庭を支えるにはその額では不安があった。そこで、兼業禁止規定がなかったため、監査法人時代に経験した証券会社の知見を活かし、知人が勤める監査法人で証券会社監査の主査も務めることにし、収入を確保した。

 次は個人事務所の経営を何とかしなければならない。そう考えていたとき、奥様のお姉様が経営する長野の会社が1社目のクライアントになってくれた。

「開業した2009年10月、甲田事務所はその1社をクライアントとして、年間売上50万円でスタートしました。2ヵ所からの監査報酬800万円と合わせて年間収入850万円。何とか資金繰りできる状態でした」

 ところがその後、兼業禁止規定により監査法人の掛け持ちができなくなり、主査を務める監査法人一本に絞らなければならなくなった。

 肝心の甲田事務所はというと、クライアントが1社からなかなか増えない。集客方法もわからず、マーケティングも営業も何も知らず、まじめにコツコツお客様に寄りそうことだけでやってきた。増え方も地道にお客様の紹介や知人・友人からの紹介のみ。3年間で5〜10社のクライアントを増やすのがやっとだった。

「当時、自宅が埼玉県川越市にあって、さいたま市北与野のレンタルオフィスを借りていました。従業員も雇わずに2016年まで7年間ずっと低空飛行。年収の6〜7割が監査のアルバイト収入で、それで生計を立てていましたね。事務所にいても電話が1本も鳴らず、一日中『暇だなぁ』と思いながら過ごすこともありました(笑)」

 転換期が訪れたのは2016年。ある弁護士との出会いがきっかけだった。よくお客様を紹介してくれる人だったが、あるとき言われた「まずは年間売上2,000万円をめざしなさい」という言葉が、甲田氏の心に刺さった。

「そこからは年間売上2,000万円をベンチマークにがんばるようになりました。事務所で2,000万円、監査で800万円、40歳でその年収ならいいだろうと思いました」

 もう1つ、甲田氏がその弁護士から言われたのは「東京に出てきてほしい」ということだった。ブランディングの観点で、「東京の優秀な税理士を紹介する」と言えるほうが顧客を紹介しやすいからだという。「東京に行くしかない」。その瞬間、甲田氏は心を決めた。

 こうして2016年8月、甲田氏は母校・早稲田大学のある新宿区に進出した。

人の縁でつながった組織

 甲田氏が新宿に出てきたタイミングは、まだ監査を含めた年収が2,800万円の時代。スタッフも60代の女性アルバイトが1名いるだけだった。ところが東京移転後、2017年4月から急展開で売上が一気に増えた。

「きっかけの1つは、シニアマネージャーの仁科を採用したことです。大変優秀で、私の分身になれる存在でした。スタッフに私が意図したことを伝えてくれ、申告書も書いてくれる。彼女が入ってくれたおかげで、顧問先も増え出して、スタッフの採用もできました。私のタスクは激変し、経営と営業とマーケティングに集中できるようになったのです。
 もう1つは埼玉から東京に移したことで、人脈のつながりで東京の優秀な人材に加わってもらえたこと。それが事務所が急成長した大きな要因です」

 実はそのシニアマネージャーは甲田氏の友人の奥様で、その後入ってくれたスタッフ(現秘書)もクライアントの奥様だったのだという。

「彼女たちに明るいオーラを感じて、ぜひうちにきてほしいとお願いしました。他にも明るくて雰囲気のよいスタッフに何名か参画してもらいましたが、コアなメンバーはほとんどみんな知り合いつながりで入っています。おかげで事務所内の雰囲気が明るくなったんです。うちの事務所の一番の財産は何といっても“人”ですね」

 居心地のよい組織ができあがってくると、事務所全体の風通しもよくなり、明るい雰囲気があふれてくる。おのずとお客様に対するホスピタリティを大切にする組織風土ができた。

 組織風土を大切にするために、甲田氏は守るべき規範「クレド」を100個ほど作った。中でも大切にしている人材像が「しっかり挨拶のできる人」「報告・連絡・相談のできる人」「協調性のある人」「前向きに取り組める人」「責任感のある人」だ。

 甲田氏は100個のクレドをYouTubeの『甲田チャンネル』で公開している。今ではその動画に共感して応募してくる人を採用しているので、YouTubeが1次選考のようになり、採用でのミスマッチもほぼなくなっているという。2023年8月現在のYouTubeチャンネル登録者は2,250人を数えている。

 現在、スタッフは総勢29名、会計士・税理士は甲田氏を含め2名、社会保険労務士2名の陣容になっている。優秀なスタッフがそろい、売上も右肩上がりに伸びているが、あまりにも急に成長しすぎたのでひずみが出てこないかと、甲田氏は不安を感じている。

「車のシャーシがちゃんとしていないのにエンジンだけ立派になってしまって、アクセルを踏んでしまっている状態。このままふかし続けると危険だなと思っているので、これから2〜3年はスピードを緩めていこうと思っています。
 私のやるべきことは、報酬、職場環境、やりがい、この3つをスタッフに与えることです。報酬を上げるためには、売上を増やさなければならない。でも売上を増やしたら優秀な人をすぐ補充できるかといえば、それは難しいわけです。今は仕事量とスタッフ数のバランスが上手く取れないことが原因でみんな疲弊しつつあります。だから勢いを少し緩めて、教育などのインプットに時間を使う時期だと考えています」

 急成長後の踊り場。それが今なので、2023年内はゆっくりと過ごしたいと甲田氏は話す。開業時から14年間携わってきた監査法人の主査も6月でやめ、事務所に専念できる体制にも変更した。1年目は50万円だった売上が開業10年で1億円。監査報酬がなくなっても、2023年12月には売上高3億円超が見込まれる規模にまで成長したのである。

新宿野村ビル23階へと移転

 2022年9月、オフィスはそれまでの西武新宿駅近くの雑居ビルから西新宿の新宿野村ビル23階へと移転した。思い切った移転である。

「雑居ビルにいた頃、このビルを眺めて『いつかあのビルに行くぞ』と思っていました。現在の家賃は月240万円、年間3,000万円。移転前は、果たして本当に支払えるのだろうかと非常に怖かったですね。毎日Excelで資金繰り表を更新しては数字を眺めていました(笑)」

 急成長を経て、次の展開は法人化を見据える。

「まずは横浜・大阪の2拠点。次は沖縄進出を考えています。沖縄に支店があれば社員旅行や福利厚生でも活用できるし、沖縄支店が法人のブランディングにつながります。最終的には北海道や東北地方にも拠点を出したいですし、海外も視野に入れています」

 2019年時点で120〜150件だったクライアント数は、そこから2023年までの間に400件を数えるようになった。この成長を支えたのが、シニアマネージャーの下にマネージャー4名を配し、さらにその下に1名30社を担当できるスタッフを育て続けたことだ。現在はマネージャークラスを教育し、枝葉を広げていくしくみを作っている最中である。「教育が進めば、また成長スピードが上がりそうな予感がしています」と、甲田氏は目を輝かせる。

 人を育てる中、今の成長曲線でいくと近い将来、売上10億円、スタッフ数100人も視野に入ってくる。

「100人までは自然に行くでしょう。そこから先、200〜300人規模をめざすかどうかはそのときの状況次第。私のやりたいことは規模の追求ではなく、人を育てることと、お客様に貢献すること、この2つだけなのです。スタッフを育てられなくなったり、まだ育っていないスタッフをお客様に送り出して嫌な思いをさせたりするようなら、規模など追求しても仕方ない。その意味で、適正規模がどれぐらいかはまだわかりません。ただ200〜300人規模になれば、私1人ではなく、成長したマネージャー陣に育成を託すことになる。今後は、そこを見据えた組織運営を考えていきます」

採用基準は人間性8割、経験2割

 組織課題としてもっとも重要なのは人の採用だと、甲田氏は話す。採用では3つのポイントを挙げている。

「大切なのは、ルールを守れる人、向上心がある人、“仕事しに”来られる人(事務所に来たら仕事に集中できる人)の3つです。まずそこをクリアし、その上でクレドにも共感してもらえたら面接を受けていただきます」

 また、会計事務所経験3年以上の場合は資格の有無に関わらず着目する。

「重要視するウェイトは、8割は人間性、残りの2割が経験。人間性に優れた人なら、資格がなくても、未経験でも、採用することはあるんです。そのため未経験者を育てるための教育にも非常に力を入れています。例えば仕事のつき合いでのお酒の飲み方や日常のふるまいなども含めてです。もちろん、税務会計に関してはOJTでチェックしながら指導していきます。
 中でも仕事の基本的な部分ができていないスタッフに対して徹底して指導しているのが、『ほうれんそう/報告・連絡・相談』です。鰻屋であれば、まず下駄をそろえるところから入って、そのあとお客様の荷物を持ち、お席に案内という流れがあります。甲田事務所という鰻屋の暖簾を見て、「ここおいしそうだから入ろう」と入ってきたお客様に対して、下駄もそろえられなければ話になりません。『その一番基礎になる部分を徹底してできるようになりなさい』と納得するまで説明します」

 人を育てるのは、並大抵の努力ではできない。甲田氏自身、「かなりしんどいです」と本音をもらす。それでもホスピタリティは甲田事務所の屋台骨である。お客様の訪問があればスタッフ全員が作業の手を止めて「いらっしゃいませ」と挨拶し、帰るときも全員がきちんと立ち上がって見送ることを徹底している。毎朝、所長の甲田氏が来たら、全員が挨拶することも指導し続けている。

「挨拶は大切です。『おはようございます』と言った瞬間、例えば元気がないスタッフがいれば、『元気がないけど大丈夫か?』と気づけるんです。挨拶しながらスタッフを指導する。とても大変ですが、そうすることで人を見られるようになりました。今、私のモチベーションがどこにあるのかというと、間違いなく人を育てることです」

 開業当初はお金を稼いで高級時計や欲しい車を買いたいと思っていた。しかし今やりたいのは、「20代、30代の若いスタッフが成長して、お客様に褒められてうれしそうにしているのを見ること」だと話す。

「元プロ野球選手・監督の野村克也さんは、『金を残すは三流、名を残すは二流、人を残すは一流』と言っていました。私はこの言葉にとても共感していて、最後はどれだけ人を残せるかが大事だと思っています」

 税理士をめざして勉強中のスタッフは29名中7名。最近では補助者として採用した社会保険労務士が組織内で独立したので、ゆくゆくは甲田事務所ブランドの一員として、社会保険労務士法人を作る構想もある。公認会計士税理士甲田事務所の他に、株式会社クラウドソリューションという経理アウトソース会社も設立した。そちらも順調に売上を伸ばし、6,000万円規模に成長している。

資格は自分を守る盾になる

 人は何かのきっかけでその後の人生が変わることがある。

「2016年、38歳のときに母を脳腫瘍で亡くし、2021年、43歳のときに妻を乳がんで亡くしました。人間の命には限りがあるのだと改めて感じましたね。そこから死生観が変わり、経営者としての考え方も大きく変わりました」

 45歳の現在、人生が今後40年続くとして、働ける残り30年で何ができるのか。何を残せるのか。そういったことを考えるようになったという。

 人生には3つの坂がある。上り坂と下り坂、そして“まさか”だ。

「妻が亡くなったのは、上の子が小学校3年、下の子が小学校1年に上がるときでした。亡くなったのが1月だったので、私は3月の卒園式と4月の入学式に遺影を持って参列しました。それまで子どものことはすべて妻に任せていたので、何をしたらいいのか、入学に備えて何が必要なのか、皆目わからなかった。そのとき助けてくれたのが、秘書を務めている女性スタッフでした。彼女の下の子が私の長男と同学年だったので、用具のそろえ方から民間学童の紹介、家事代行の手配までしてくれたのです。民間学童は当然有料ですが、子どもを学校まで迎えに行き、そのまま塾に連れて行ってくれて、夜7時まで預かってくれます。私は夕方6時まで事務所で仕事ができるので、今も週4日、民間学童に預けています。さらに家事代行サービスも週3回、買い物から料理、掃除、洗濯までお願いしています。おかげで私は家事をほぼやらずに済んでいるんです。こうした様々なサポートがなければ、わが家は非常に厳しい状況だったと思いますね」

 夜7時に子どもたちが塾から帰ってくると、夕飯を食べながら話を聞いたり、学校の持ち物をチェックしたり、親としてやることは山積みだ。

 「ワンオペなので、家に帰っても全然休めないのはしんどいですよ。『我ながらよくやっているな』と自分を褒めてあげたい」と、笑顔を見せる。夕食を食べながら子どもたちから今日の出来事を聞く。それまですべて奥様に任せ、夜10時に帰宅していた甲田氏にとって、きっとそれはかけがえのない時間に違いない。

「子どもたちと過ごすために、土日は仕事をしません。やるなら早朝5時から午前9時まで。その後は子どもたちを水泳などの習い事に送迎するなど、週末もバタバタしています。
 妻は子どもが大好きで『好きなようにやりたいから家のことは任せて』と言っていたので、妻が亡くなるまで私は子育てにまったくノータッチで…。飲みに行くことも多かったし、年末は忘年会続きでした。だから自分にとって妻が亡くなったダメージはものすごく大きかったんです。
 でもそれ以上に心配だったのは、子どもたちのメンタルです。母親を亡くした子どもたちが大丈夫だろうか、そこが一番心配でした。何とかしたくて『2人には、お父さんがいるから大丈夫だよ』と伝え、事務所の写真や自分のYouTubeチャンネルを見せて『お父さんはこういうことをやっているんだよ。すごいだろ』と話をして…。2人とも少し安心したようで、私を頼ってくれるようになりました。大変だったけれど、おかげで何とかここまでやってこられました」

 “まさか”の坂は、甲田氏を人間的に一回りも二回りも成長させてくれたのかもしれない。

「人生いろいろなことが起きると思いますが、そのときに負けないことです。耐えれば何とかなる。そう思っています」

 事務所の入口には「自分を信じろ。必ず道は拓けるから。」という標語がかかっている。それは奥様が亡くなるとわかったとき、自分を鼓舞するためにある人に書いてもらったものだという。

「子ども2人を父子家庭で育てながら社長業ができているのは、会計士の資格を持っているから。それ以外の何ものでもありません。会計士のように自由度が高くて、ある程度収入が得られる資格を持っていなかったら、この生活はできませんでした。家事代行だけで月額25万円、民間学童にも塾にもそれなりの金額を支払っています。会計士資格があるから、それだけ払える収入を得られている。そこが私の強みなんです。
 過去にものすごく努力したことは、必ず自分の盾になり、いざというとき自分を守ってくれます。私も会計士資格を取るのに相当の努力をしました。努力したことは必ず将来自分のプラスになるので、受験生の皆さんには今がつらくてもがんばって乗り越えてほしいと願っています」

 資格は自分を守る盾になる。甲田氏が発しているからこそ、この言葉には重みがある。「人を幸せにする」ことが好きだったお母様や奥様の遺志を継いで、今後も今以上に人の教育や、事業再生など困った人を救う事業に関わっていきたいと、甲田氏は考えている。


[『TACNEWS』日本の公認会計士|2023年10月号]

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